「不倫」で産まれた不遇の天皇⁉︎ なぜ崇徳上皇は「怨霊」になったのか?
■仏道修行を妨げる因縁、仏教用語でいう「魔縁」とは 天狗は、僧侶の仏道修行を邪魔立てしてやろうと度々ちょっかいを出すものの、大抵の場合、逆にコテンパンにやっつけられるという、頓馬な姿で描かれることが多かったからである。 ところが、例外というのはどこにでもあるようで、人々を恐怖のどん底に陥れる、恐ろしい天狗もいた。それが、恨みを募らせた挙句、自ら大魔縁になるとまで言い切って憤死した崇徳(すとく)上皇であった。 ちなみに、魔縁とは仏教用語で、仏道修行を妨げる因縁または悪魔のことを指すといわれるが、小賢(こざか)しい知恵に慢心すること、つまり愚かな天狗道に陥った者のことも、こう呼ぶようである。その魔縁に大の字が付くわけだから、言い換えれば、崇徳上皇は、「天狗の首領になってやる!」と宣言したようなものなのである。 ■舌を噛み切って認めた呪いの誓文 ここで紹介する崇徳上皇とは、第74代鳥羽天皇の第一皇子で、父の跡を継いだ歴とした天皇の退位後の呼び名である。皇位継承問題のもつれから武力騒動(保元の乱)を引き起こしたものの、敗れて讃岐へと配流。その戦いの相手となった弟・後白河天皇に恨みを募らせた挙句、自ら舌を噛み切って流れ出た血で、呪いの誓文を認めたのである。 それが、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」の一文であった。我こそは魔縁の中の魔縁、つまり、天狗の親分になって、天皇を引き摺り下ろしてやる!と、宣言したというのだから穏やかではない。しかも、死ぬまで髪も爪も伸び放題にしたというから、夜叉のようなおぞましい姿であったに違いない。配流先で恨みを募らせたまま崩御(一説には暗殺されたとも)。埋葬の際、蓋を閉めたお棺から血が流れ出たとの、鳥肌が立つようなおぞましい話も言い伝えられている。 ■恨みが怨霊となって祟る 問題は、その後である。崇徳上皇崩御後、後白河法皇を取り巻く人々が、次々と亡くなっていったからである。妻・建春門院(平滋子 けんしゅんもんいん/たいらのじし)をはじめ、二条天皇の中宮だった高松院(妹子内親王しゅしないしんのう)や近衛天皇の中宮だった九条院(藤原呈子・ふじわらのていし)などが続いた。加えて、延暦寺の強訴、安元の火災、平家打倒の陰謀事件(鹿ケ谷の陰謀)等々、不穏な事件まで次々と巻き起こった。 源頼朝をして大天狗と言わしめたほどのくせ者・後白河院も、この災難続きには参ったようで、これを崇徳上皇の祟りと信じ、恐れおののいたのである。怨霊を鎮めようと、保元の乱の戦場となった春日河原に、崇徳院廟を設置したのが、その表れである。 ただし、それごときで上皇の怨霊がおとなしく引き下がるはずもなかった。14世紀前半の後醍醐天皇の御世にも、上皇の怨霊が大天狗の首領として、金色の鳶の姿で出現。江戸時代後期の怪異小説『雨月物語』(上田秋成著)では、崇徳上皇の亡霊が西行の前に立ち現れて、平治の乱を巻き起こしたのも、源義朝(よしとも)や藤原忠通(あだみち)の命を奪ったのも自分の仕業であると言わしめている。明治天皇が即位の儀を執り行うにあたって、わざわざ勅使を讃岐に派遣。上皇の御霊を京の都に迎え入れて白峰神社を創建したというから、実に長きに渡って朝廷はこれを恐れ続けたのだ。 ■出生にまつわる、とある噂が一因 それにしても、なぜ崇徳上皇は、これほどまでに恨みを募らせたのだろうか。実のところ、その発端となったのは、上皇の出生にまつわる、とある噂であった。上皇の本当の父親は鳥羽天皇ではなく、曽祖父・白河天皇だったと、まことしやかに語られていたのだ(鎌倉時代の説話集『古事談』による)。母・璋子(しょうし)との密通によってできた子となれば、鳥羽天皇の実の子であった後白河天皇と対立するのも無理なからぬ話であった。 しかも、異母弟の体仁親王(近衛天皇)を即位させるために、後の鳥羽上皇から退位を迫られた挙句、守仁親王を次の天皇とするために、その父である雅仁親王(後白河天皇)が即位。自身の子である重仁親王に即位の機会が与えられなかったことで、憤懣(ふんまん)やる方なしと思ったことだろう。配流先で隠忍自重して写本に明け暮れたものの、後白河院に無視され続け、心血を注いだ写本の受け取りまで拒否されるに及んで、ついに堪忍袋の尾が切れた。激昂のあまり、前述のおぞましい誓文を認めることになったのである。 ちなみに、『鬼滅の刃』に登場する半天狗は、分身の術に長けた鬼として登場している。しかし、人間だった頃は気弱な小悪党であったというから少々小粒。この上皇のおぞましさには、遠く及ばないようである。
藤井勝彦