なぜ『源氏物語』は主人公が「源氏」なのか? 藤原氏が排斥した「源氏の怨霊」を鎮魂するためだった?
■源高明を陥れた「安和の変」が契機? 理由の一つとして昨今、目につくようになったのが、藤原氏による「怨霊鎮魂説」である。道長が排斥した源氏の「怨霊の祟り」を怖れたため、という説である。源氏の活躍ぶりを物語の中で称賛し、その霊を慰めようとしたというのだ。 そして、その排斥事件の最たるものが、969年に起きた「安和の変」=藤原氏の他氏排斥事件である。 当時の左大臣は源高明。彼の娘が嫁いだのが、為平親王であった。冷泉天皇の後を受けて為平親王が即位すれば、源高明は天皇の外戚となる。これに藤原氏が危機感を覚えたことは言うまでもない。藤原氏は、源高明の排斥を企てた。 手口を見てみよう。まず、源満仲と藤原善時が、「橘繁延と源連らが謀反を企てている」として密告。直後に、藤原秀郷の三男で、善時とは武蔵国における利権で対立していた藤原千晴とその子・久頼までもが、同事件に関与したとして逮捕。尋問の末、源高明の名まで上がり、謀反に加担しているとみなされて、左遷されてしまったのだ。 このとき逮捕された藤原千晴とは、藤原北家魚名流の出自とはいえ、源高明の従者である。事件をでっち上げた藤原師尹にとっては、政敵とも言える間柄でもあった。 事件後、空席となった左大臣の座に師尹が座ったことから見ても、彼がでっち上げた側の首謀者であった可能性が高そうだ。 問題は、師尹が左大臣に昇進してから、わずか半年にして病没してしまったことである。それが、「源高明の祟りによるものだ」と噂されたのだ。これが、後の藤原氏一族にとって、禍根を残すものとなる。 ちなみに、この事件が起きた969年頃の道長は、まだ3歳。当然のことながら、彼が直接手を下したわけではない。一族の長となってから事件の顛末を知り、祟りを怖れたという可能性もありはするものの、道長が源高明個人だけでなく、排斥した源氏諸氏の祟りまで怖れていたというのは、考えすぎというべきだろう。 実のところ、道長と源氏とのつながりは、思いのほか深いからだ。 ■藤原氏と源氏の密な姻戚関係 そもそも、道長の最初の妻・倫子は、左大臣・源雅信の娘であった。雅信とは宇多天皇の孫で、臣籍降下して源氏性を名乗った人物。道長の父・兼家は当時摂政として実権を掌握していたものの、一上でもあった雅信とは敵対関係にあったことは間違いないが、排除するようなところまでには至っていなかったようである。 そんな対立関係にありながらも、雅信が娘・倫子を道長に嫁がせたのは、妻である藤原穆子が道長の将来性を見抜いて、それに賭けたからだといわれる。その後、道長は広大な土御門殿を雅信から受け継いだばかりか、現職の大臣と結婚したことで、義父の恩恵を被って目覚ましい出世を遂げた。 さらに興味深いのが、道長の2番目の妻・明子だ。彼女こそが、前述の源高明の娘ということ。源高明が大宰府へと流されて以降、明子は叔父である盛明親王の元に身を寄せたが、親王亡き後は、道長の姉・詮子の庇護を受けている。道長がどのような経緯でこの明子と結ばれたのか定かではないが、倫子と結婚した一年後の988年頃、明子とも結ばれている。 前述の雅信の四男・扶義の娘・簾子や、醍醐天皇の第三皇子である源重光の娘をも妾とするなど、源氏姓の娘を次々と娶っていることをも見逃せない。 また、道長ばかりか、兄の道綱の妻も雅信の娘である。道綱はその女性以外にも、源広の娘や、源頼光の娘、源満仲の娘をも妻としている。満仲といえば、安和の変において、最初の密告者となった御仁である。 道長の父・兼家までもが源義忠の娘を娶っているほか、道長の長男・頼通も、源憲定の娘・対の君を娶り、逆に兼家の二人の妹が高明や重信に嫁ぐケースもあった等々、藤原氏と源氏との婚姻は、枚挙にいとまがない。 以上のような観点から鑑みれば、道長が源高明あるいは源氏諸氏の怨霊を怖れていたとの見方は、あまり納得できない。極めて濃密な姻戚関係でつながっていたわけだから、藤原氏にとっての源氏は、もしかしたら同族意識に近いものがあった(むしろそう思いたかった)のかもしれない。その権威に敬意を表することはあっても、怖れるなどということは考え難いのだ。 たしかに、高明にとって藤原氏は、自身を陥れた憎き存在だったかもしれないが、娘が嫁いだ先でもある。藤原氏を恨んで祟りを成せば、娘までもが哀しむことは必定。このように考えれば、高明個人としても、氏族としても、ともに藤原氏を恨むことも少なかったのではないかと思えるのだ。 以上のような経緯を踏まえれば、『源氏物語』の主人公を源氏にしたのは、源氏の怨霊を慰撫するためというよりは、その権威に敬意を表するがためのものだったと考えられる。果たして、皆さんはどのように思われるだろうか? 画像出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
藤井勝彦