「プラットフォームに欲望を奪われる」…ほとんどの人が気づいていない「個性の消滅」という「恐るべき事態」
SNS上での承認を求め、タイムラインに流れる「空気」を読み、不確かな情報に踊らされて対立や分断を深めていくーー。私たちはもう、SNS上の「相互承認ゲーム」から逃れられないのでしょうか。 【写真】「プラットフォームに欲望を奪われる」恐るべき事態 評論家の宇野常寛氏が、混迷を深める情報社会の問題点を分析し、「プラットフォーム資本主義と人間の関係」を問い直すところから「新しい社会像」を考えます。 ※本記事は、12月11日発売の宇野常寛『庭の話』から抜粋・編集したものです。
社会的に画一化される身体
ある幻想で、別の幻想を相対化することが原理的に不可能である以上、もはや関係の絶対性そのものを相対化するほかない。そして、インターネットのほんとうの夢はここにあったはずだ。 それは不毛な、自己目的化した相互評価のゲームを通じて自己幻想を肥大させることではなく、一人の人間が家族や国家を経由せずに、世界とつながることそのものにあったはずだ。 ばらばらの人間たちが、ばらばらの、家族や、国家といった共同体の一員としてではなく一人の人間のまま他の誰かとつながること。この新しい回路「も」世界に備えることで、相対的に自由になること。インターネットが実現してくれるかに見えたこの自由を、残念ながら私たちはいま、みずからの手で台なしにしようとしているのだ。 では、どうすれば私たちはこの情報技術に支援された関係の絶対性を相対化することができるのだろうか。 以前生まれつき手足の欠損している友人から、このような話を聞いたことがある。自分は別に「歩きたい」と思ったことはない、と。移動がより便利になればその手段は別にどのようなものでもよく、とくに2本の足で歩くことに憧れやこだわりはない、と。それでも新型義肢の開発プロジェクトに参加するのは、社会に対して多様性の価値を訴える効果が高いからだ。そう、彼は述べていた。 プラットフォームとは「社会的身体」を拡張する装置だ。好きな名前を選び、好きなアバターを用いて、東京の片隅からドナルド・トランプにもイーロン・マスクにもリプライを送ることができる。 このとき、「五体満足」な私と「五体不満足」な彼との間にはまったく差はない。プラットフォームに接続したとき、彼の身体の「個性」は消失する。その結果、彼の「別に歩きたくない」(他の移動のほうがいい)という、あの身体だからこそ生まれたユニークな欲望も消去されてしまう。おそらく、ここに今日の人類が陥っている巨大な罠がある。 人間の創る世界を多様に、豊かにするためには、そこに吐き出される欲望が多様でないといけない。そして欲望は身体から「も」生まれる。歩いたことのない彼に歩きたいという欲望はなく、代わりにまったく別の移動への欲望が生まれているように。 しかし、FacebookやX(Twitter)に接続するとき、世界中のあらゆる人びとの社会的身体は同じものになっている。プラットフォームはユーザーの社会的身体を画一化する。それは社会的身体の五体満足主義にほかならない。 プラットフォーム上のコミュニケーションが貧しいのは、そこでコミュニケーションの単位となるアカウント(≒社会的身体)が画一化されているからだ。 FacebookやInstagramではLikeを与えるか、与えないか。共感するか、しないかで承認が交換される。X(Twitter)や匿名掲示板に散見される一言のコメントはもちろんのこと、そこに制限字数の限界まで文が書かれていたとしても、論理そのものはタイムラインに頻出する「定形」のものであることがほとんどだ(もちろん、ユーザーはそれで「考えた」気になっている)。