「プラットフォームに欲望を奪われる」…ほとんどの人が気づいていない「個性の消滅」という「恐るべき事態」
「脱ゲーム的身体」へ
プラットフォームのもたらす画一的な社会的身体は相互評価のゲームで承認欲求を満たすこと以外の欲望をもちえない。つまり他のユーザーからの承認欲求を得ることしか考えられない身体を与えてしまう(プラットフォームの仕様上、それ以外の欲望が喚起されにくくなる)のだ。 逆もまた然り、だ。目的は人間の身体を縛る。とくに人間間の関係性についての目的は決定的に人間の身体を縛りつける。ハッシュタグに動員されて街頭に出たとき、所属する共同体のメンバーシップを確認するための酒の席にいるとき、やはり私たちのおこなうコミュニケーションは画一化されている。 承認を交換するだけの器官と化した結果として、ストリートを歩いているときに偶然目に入るものを気に留めなくなり、居酒屋で出された料理の味を気にしなくなる。 この悪しき循環によってこれらの場でもまた、人びとのコミュニケーションの主体は同じような社会的身体に画一化されてしまい、誰もが同じような行為しかしなくなるのだ。 こうして考えたとき、人間を人間同士の関係性の檻に閉じこめるプラットフォームは私たちが近代の社会のなかで育んできた身体の管理によって欲望を画一化する装置の完成形として位置づけることができる。 しかし今日のプラットフォーム上の画一的な身体はシリコンバレーのアントレプレナーたちの陰謀の結果生まれたものではなく、彼らが無数に提示したプランから私たちがきわめて民主的に選び取ったものだ。 それは、私たちが望み、手に入れた貧しい身体なのだ。だからこそそれは市場から、それもインターネットというボトムアップで生成される場所から生まれてきたのだ。 そして、その身体が特化する(「関係の絶対性」に縛られた)人間間のコミュニケーションは、残念ながら(少なくとも自分たちが思っているほどには)多様ではない。 では、どうすれば多様性を回復できるのか。プラットフォームの与える画一化された社会的身体を拒否し、脱ゲーム的な身体を回復することができるのだろうか。 さらに連載記事<インターネットが実現した「多様性」を人々がこぞって捨て去ろうとしている「悲しき現実」>では、現代の情報社会が直面している問題点をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
宇野 常寛(評論家)