勝者が「正」なのか?敗者が「悪」なのか?勝者によってつくられた「歴史」を考える
今日に伝わる歴史は、勝者の記録であることが多い。敗者による史料は、ほぼ断片的にしか残っておらず、事件や合戦の実像を知る上で、実は偏った側面を持つ。歴史を正当に読み解く上で不可欠な「敗者」の視点と、その魅力についてひもといてみたい。 ■勝者=善として扱う勧善懲悪史観への疑問 歴史は、どうしても勝者が書く勝者の歴史になりがちである。それはなぜかというと、政権を取った側、すなわち勝者が、自分たちの正当性を強調し、それを歴史として書き残すからである。そして、それが「正史」とされ、語り伝えられ、学校教育の現場でも教えられることになり、知らず知らずの内に勝者の立場で歴史をみる癖がついてしまっている。 中学・高校の日本史の教科書は政治史が中心で、必然的に勝者の歴史が描かれ、それが日本史の流れとして理解されることになる。 そしてもう一つ、歴史が勝者によって作られる理由がある。それが勧善懲悪(かんぜんちょうあく)史観である。「正義は勝つ」というわけで、勝った側が善、敗者は悪とされる。それは、単に勝ち負けではなく、成功と失敗についてもいえる。改革に成功した者はたたえられ、失敗した者はけなされる。 関東独立国構想を描きながら、それに失敗した平将門は、平将門の乱を起こした反逆者とされたのに対し、実現に成功し、鎌倉幕府を開いた源頼朝は立派な為政者としてもてはやされている。ここにも、歴史が勝者によって作られる要因があるとみてよい。 勧善懲悪史観、すなわち、勝者が善で、敗者が悪という歴史観の極致が「征伐」という言葉に代表されるとみてよいのではないかと考えている。 たとえば、豊臣秀吉の天下一統の流れを追うとき、無意識のうちに、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、さらに朝鮮征伐といういい方がされてきた。 勧善懲悪史観だと、敗者は悪とされる。このような悪人だったために、正義、すなわち勝者によって滅ぼされたという論理の組み立てでこれまでは扱われてきたが、近年は果たしてこれでいいのかという声があがってきたのである。 ここに例として挙げた四国征伐の場合の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)にしても、九州征伐の場合の島津義久(しまづよしひさ)にしても、小田原征伐の場合の北条氏政・氏直父子にしても、さらに朝鮮征伐の場合の朝鮮にしても、彼らが何か悪いことをしたわけではない。秀吉の天下一統、海外侵略に抵抗しただけである。このような背景があるために、最近では、研究者の間では「征伐」という言葉をできるだけ使わないようになってきている。 ところで、歴史が勝者によって作られる理由がもう一つある。本来あったはずの敗者の側の史料が、勝者によって隠蔽(いんぺい)されたり、抹殺されたりしたからである。時には改竄(かいざん)や脚色も行われている。 たとえば、関ヶ原の戦いの勝者・徳川家康と、敗者・石田三成を比較してみよう。現在、戦いの直前に出した家康の文書はおびただしい数が残っているのに対し、三成の出した文書は数点しかない。三成もかなりの数の手紙を出したはずであるが、残っていないのは、関ヶ原の戦いの後、受け取った側が家康の手紙は残し、三成の手紙は保身のために処分してしまったのではないかと考えられるのである。 監修・執筆/小和田哲男 歴史人2024年7月号『敗者の日本史』より
歴史人編集部