爆弾抱えた戦闘機、特攻隊員見送る母は震えた「この人たちはもう帰ってこない」鹿児島・知覧の女学生らの体験伝える「語り継ぐ―戦争を知らなくても」(1)
太平洋戦争の終戦から78年となる夏を迎えた。時の経過とともに戦争を体験した世代は減り続け、貴重な証言を直接聞くことができる機会は失われつつある。「あの悲惨な時代を二度と繰り返してはならない」。そう考え、肉親や友人、先輩らの「記憶」を語り継ぐ人たちがいる。戦争末期に、戦闘機で敵艦に体当たりする任務を命じられた特攻隊員たち。鹿児島県の知覧特攻平和会館で語り部を務める男性は、女学生時代に隊員を見送った自身の母らの経験や心境を来館者に伝える。日々の活動への思いを語ってもらった。(共同通信=渡具知萌絵) ▽「あの人たちは生きた神様だった」出撃する特攻隊員たちの世話をした母の思いを胸に語り部を続ける桑代照明さん(66) 母のチノ(94)は、鹿児島県知覧町(現在は南九州市)にあった陸軍知覧飛行場で特攻隊員の身の回りの世話をし、出撃を見送る知覧高等女学校の「なでしこ隊」の一人でした。私は平和を願う母の思いを受け継いで、知覧特攻平和会館で隊員たちが残した言葉や戦地に赴くまでの様子を伝えています。
会館の職員から語り部の話を持ちかけられたのは、警視庁を退職して帰郷した後のことです。話すことは得意ですが、母から当時の話を聞いたことはなかったので難しいのではと思いました。しかし母は「ぜひやってほしい。今まで話したくなかったが、戦禍を繰り返さないよう(体験を)伝えるのが最後の奉公だ」と言ってくれました。その言葉に後押しされ、2018年から活動を始めました。 なでしこ隊だった他の女性たちからも話を聞き、修学旅行生や観光客に向けた講話に盛り込んでいます。女学校の3年生は特攻隊への奉仕が命じられ、約3週間、洗濯や食事の支度をしたこと。隊員から家族宛ての手紙と切手代をこっそり手渡され、ポストに投函してほしいと頼まれたこと…。当時は「特攻隊員に涙を見せるな、笑顔で奉仕活動をしろ」と厳しく教育されていたから、泣き顔など見せられなかったそうです。 当時隊員をどう思っていたか母に尋ねたことがあります。母は目を閉じて手を合わせ「あの人たちは生きた神様だった」と、かみしめるように話しました。大きな爆弾を抱えた戦闘機を見送る時は「この人たちはもう帰ってこないんだ」と恐怖で足の震えが止まらなかったといいます。いまだにエンジンの音や排ガスのにおいが体に染みついて離れないと教えてくれました。語り部をする上で、隊員と関わった話を母から聞けるのはありがたい。生の言葉は重みが違います。