爆弾抱えた戦闘機、特攻隊員見送る母は震えた「この人たちはもう帰ってこない」鹿児島・知覧の女学生らの体験伝える「語り継ぐ―戦争を知らなくても」(1)
講話では複数の隊員を取り上げていますが、中でも23歳で戦死した穴沢利夫大尉の話は印象深いです。母は穴沢大尉を見送った女学生の一人で、穴沢大尉の婚約者だった女性とも親交がありました。2011年には、穴沢大尉が出撃をした4月12日にその女性が知覧を訪れ、母と一緒に歩いて特攻平和観音堂にお参りをしました。その際、女性が母の手を強く握りました。その時のしびれた感覚は今でも残っているそうで、母は「穴沢さんに対する思いはそれほど強かったんだね」と話しました。女性はその2年後、89歳で他界しました。 ロシアによるウクライナ侵攻など、世界では紛争が絶えません。親族間の事件も相次いでいますね。隊員らが残した言葉を通して家族愛や人生の教訓を子どもたちに伝えたいと考えています。 今年7月には、私が指導に当たった松山尚子さん(49)が、最年少かつ初の女性の語り部としてデビューしました。会館の遺品室には、隊員が母親や恋人に向けて書いた遺書や手紙が数多く展示されています。子どもを持つ松山さんには、今までになかった視点で特攻を語り継いでほしいと期待しています。
平和会館では戦争の悲惨さを語るだけでなく、人生のアドバイスをしたいとも思っています。戦争体験者が減少し、語り部も私のような戦後生まれが増えました。母の言葉を借りて平和の尊さ、命の大切さを伝えていくつもりです。 知覧飛行場 1941年に大刀洗陸軍飛行学校(福岡県筑前町など)の分教所として当時の鹿児島県知覧町に開設された。戦況悪化を受け1945年初頭から特攻基地化。1987年、飛行場跡地に特攻隊員の遺品などを展示する知覧特攻平和会館が開館した。