博多っ子の食卓を支え続けて90年超 国際線で空も飛んだ「おきゅうと」とは?
おきゅうとが薄いのは博多人の性格のせい?
「まるでうなぎの寝床でしょ」と案内された細い通路の奥に磯の香漂う工場。60~80代のパートを含む9人で、日々おきゅうと作りに励む。おきゅうと屋の朝は早い。天日干しして乾燥させた海藻を早朝から約2時間程度煮る。なめらかな食感を出すために裏ごしし、特注の機械で風を吹きかけて小判型に広げる。そして、冷やして固めると完成だ。県内には寒天のようにブロック状に固める地区もあり、薄く小判型にするのが博多のおきゅうとの大きな特徴だという。 「朝は立ってご飯を食べるほどに商人の街・博多の人はせっかち。うどんは柔らかいし、ラーメンは細い。すぐ食べられるようにおきゅうとも薄くなった」という。 夏休みの帰省やお盆のお供えお膳用に需要が増える8月の繁忙期には、朝の3時ごろから海藻を煮詰め始める。
「博多はおきゅうとたい」多いときで1日3~4万枚製造、3代目が受け継ぐ郷土食の誇り
「最高1日3~4万枚。朝3時過ぎから2時間煮込んで、夜は11時過ぎに帰ることも」と美木子さん。 「お盆時期にはお客さんに、お盆だけ思い出して買いに来んで! 忙しくなろうもんお盆が! って今年何人ゆうたかいな」と笑う。 「ところてんはありません。すみません」と貼り紙のある店先で話しを聞いていると、近所の人が道から話しかけてくる。明るく笑って応じる美木子さん。次は若い男性が「こんにちは」と入ってきた。 「おきゅうとってどんなのか、分からないんですけど、有名だと聞いて」と5枚入りのおきゅうとを2袋を手に帰っていく。話を聞くと箱崎に越してきたばかりだとか。 ふらっと立ち寄れる雰囲気も手伝って90年以上、おきゅうと1本でやってきた。創業者である、祖父・勝治さんから父・隆三さんへと渡ったバトンを2006年に晃弘さんが受け取った。 「子どものころは屋上でエゴ草を干すのが私たちの仕事でね。夏休みも冬休みも家の手伝いだった」と振り返る。2004年に発生した新潟県中越地震で、原料であるエゴ草が一切採れなくなってしまい、原料が高騰する経営危機もあった。 「問屋は大幅値上げ。ほかの海藻でしのぐという手もあったけど、職人気質だった父に言わせると匂いが違う、味が違う、絶対作りたくない、こげなことするならおきゅうと屋なんか辞めっしまえって言いだしてね」 店を閉めることも頭をよぎったが、銀行からの融資で何とか乗り切った。一方、後継者がいなくて廃業した同業者も多いという。