【連載】特攻兵の「帰還」 戦後79年えひめ ⑤イングラハム(上)
ビデオ会議システム「Zoom(ズーム)」を通じて、米関係者とミーティングの機会を得たのは2023年7月27日だった。 参加者は4人。調査の端緒となったミネソタ州のマーニー・ジョレンビーさん、堀元官一さんが特攻した米駆逐艦イングラハムの乗組員の息子で、堀元さんの遺品を所持するカリフォルニア州のトム・パイシュさん(68)、イングラハムの歴史に詳しいインディアナ州のトニー・ティールさん(56)、そして日本の筆者だ。 ■ 米側の被害 筆者にとってミーティングの目的は二つあった。一つは堀元家の意向を伝えること、もう一つは米側から見た戦闘の記録を知ることだった。 後者については、特に米側の被害を詳しく聞きたかった。それは堀元さんの加害者としての面を直視することになり、筆者としても痛みを伴うが、戦争の実像を知る上で欠かせないと思っていたからだ。 日本において特攻隊員の死は、ある種の「あいまいさ」をまとっている。隊員との別れは数々のエピソードで語られるが、多くの場合、その最期は見届けられていない。誰がどの艦を攻撃しどのような死を遂げたのか、また連合国側がどんな被害を受けたのか、個々について詳細に分かるケースは少ない。 特攻は、日本の若者だけではなく米国の若者にとっても悲劇だった。自国中心の愛国的な物語にしないためにも、米国の記録を踏まえ、あいまいさを排した戦場の史実を知りたかった。 筆者はまず3人に、堀元家の人々が米国の情報に非常に興味を持っていることを伝えた。その上でパイシュさんと堀元家の間を橋渡ししたいと申し出た。すると彼は「すごいことだ」と歓迎の意思を示し、遺品の返還を快諾した。 続けてたずねた。「私はこのことを、ゆくゆくは記事にしたいと考えています。そのために米側の情報を知りたいです。具体的には米軍がこの戦闘でどのような被害を受けたかということ、そして関係者たちが特攻に対して、どのように感じたかについてです」。 パイシュさんは静かに口を開いた。 「イングラハムでは乗組員15人が死亡し、30数人が負傷しました。船は沈まずにすみましたが、もう少しで沈没するところでした」
愛媛新聞社