「いじめ物語の呪縛から子どもを解放せよ」 北澤毅・立教大学名誉教授 <いじめ問題の解決法【3】>
<【6章】「いじめ物語」からの解放を求めて>
●6(1)社会問題とは何か 社会問題の起源をたどれば、最初の一歩は、どこかで何かが起きた、誰かが何かを訴えた、ということから始まっています。 それこそ世界の至る所で、いつでも何かが起きているわけですから、決定的に重要なのは、その出来事に注目する他者が現れるかどうかということになります。 例えば、子どもの自殺は、家族をはじめとした近しい人達にとっては衝撃的で理不尽な悲劇でしょうが、その悲劇性は私的な性格のものです。 しかし、その自殺が「いじめ自殺」としてマスメディアで報道されれば、一気に社会的に注目される可能性が高まります。いわば、私的あるいは特定地域の悲劇的な出来事が、「日本社会のいじめ問題」の一事例に転換するということです。 このような考え方をする時に重要なのは、子ども達もまた「いじめが社会問題となっている」現代日本社会を生きているということです。 いつの時代の子ども達も、同世代とのつきあいのなかで様々な経験をしているはずです。たとえ仲の良い友達同士であっても対立することはあるでしょう。その時、決定的に重要なのは、自分の経験をどのような言葉で理解するかです。 「無視された」「口喧嘩した」「仲直りした」など、実に様々に表現可能ですが、もし「いじめられた」と捉えるなら、たちまち「いじめ物語」に呪縛され身動きがとれなくなるおそれが生まれます。 ●6(2)「いじめ問題」の規範力 2011年10月に大津市の中学生が自殺しました。 その後、様々な経緯がありましたが、およそ8ヶ月後の2012年7月4日の毎日新聞朝刊に、「自殺練習させられた」という耳目を引く見出しが掲げられた記事が掲載され、それを契機に「いじめ自殺」事件としての過熱報道が始まりました。 事件の詳細については私達の著書(北澤毅・間山広朗編『囚われのいじめ問題』岩波書店、2021年)を読んでほしいと思いますが、この事件をきっかけとして「いじめ防止対策推進法」(2013年)が成立しました。 この法律については賛否両論様々な意見がありますが、本稿が注目するのは第2条で、「『いじめ』とは、(中略)、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう」と定義されていることです。 なぜ注目するかと言いますと、この定義では、ある行為が「いじめ」かどうかは「被害者」の主観が決めることであると主張していることになるからです。 これについては、被害者に寄り添う意義のある定義だという賛成論もありますが、「被害者の主観だけでいじめ事実を決めて良いのか」という反対論もあります。 非常に難しい問題ですが、ここでは、賛否両論それぞれにとっての重要な論点について述べておきたいと思います。 まず賛成論ですが、次のような場合を考えてみましょう。 他者の何気ない振る舞いや発言に傷つくという経験は誰にでもあるはずです。もちろん、何気なさの背後に「悪意」が秘められている場合もあるでしょうし、その時、傷ついたあなたが相手の振る舞いに抗議したとしても、相手側が優位な関係にあれば「思い過ごしでしょう。被害妄想だね」などと反撃され笑いものにされ二重に傷つくかもしれません。 それを恐れて、傷つきつつも黙って耐えようとすれば、さらなる攻撃に晒されどうしようもない孤立状態に追い詰められる危険もあります。 その時、「君が苦しいと思うならそれはいじめだ」と法的にも社会的にも認めてもらえるなら、いじめを告発しても孤立せずにすみますし、あなたの苦しみを受け入れてもらえるでしょう。 そういう意味で、被害者に寄り添ういじめ定義には大きな効果が期待できるわけです。 しかしまた、反対論の主張にも重要な論点が含まれています。 たとえば、行為者側に「いじめよう、困らせよう」といった悪意がなかったとしても(あるいは、たとえ好意で何かをしたとしても)、相手側が「嫌なことをされた、いじめられた」と思えば「いじめ」になりますので、「いじめる意思」がなかったとしても「いじめ加害者」になる恐れがあります。 つまり、「いじめをなくす」ための法律が、「悪意なき人物までも加害者にしてしまう」といった新たな事態をもたらす可能性があるということです。 また、このような場合も法的には「いじめ」と認定可能ですので、この「いじめ」に誰が責任をとるべきかという問題を引き起こすかもしれません。 もし、加害者を特定することが難しい場合は、被害者の苦しみに「気づけなかった」「適切に対応しなかった」などの理由で担任教師や教育委員会が非難の対象になる可能性もあります。 以上、賛否両論について簡潔に述べましたが、どのような法律や制度にも光と影があるということの一端を紹介したつもりです。 もし、いじめ防対法の内容に関心を持てるようでしたら、他にも検討すべき論点はいくつもありますので、みなさんも是非考えてほしく思います。 いずれにせよ、こうした社会状況を生きている現代の子ども達は、何かちょっとでも嫌なことをされれば「いじめられた」と捉える可能性が高まっているように思います。 その時こそ、早期発見早期対応のチャンスとも言えますが、同時に、「いじめ物語」に囚われ「いじめられて苦しい」、だから「学校に行きたくない、死にたい」と考えるリスクも高まるように思います。 そしてもし、「いじめ苦」を表明した遺書を残して子どもが自殺をしたとなれば、またもやマスメディアが大きく報道することで、「いじめ物語」がますます強固となり人々を呪縛していく恐れがあります。 このような悪循環ループが40年近くも続いているのが現代日本社会の「いじめ問題」の特徴ではないでしょうか。 もちろん、こうして作られた「いじめ問題」はいずれ消滅するでしょう。しかしいつ消滅するかは誰にも分かりませんし、それまでは私達の考え方や行動の仕方を拘束する力を持ち続けることになります。 その意味で「いじめ問題」とは、規範的な力を持つ一種の物語なのだということを強調しておきたいと思います。 ●6(3)「いじめ問題」からの解放を求めて 最後に、「いじめが原因で自殺をした」という考え方の危うさをもう一度確認しておきたいと思います。 顔を殴られれば痛いでしょうし骨折したり出血したりするかもしれません。殴られたから痛いというのは、酸素がなくなれば蝋燭の火が消えるのと同じく、物理的な因果法則です。 しかし、「いじめが苦しくて自殺をする」のは物理的因果法則ではありません。 私達の社会は、「いじめをなくしたい」と願いつつ、これまで様々な取り組みをしてきたわけですが、そうした取り組みそれ自体が、意図せざる結果として「いじめ物語」を再生産し、結果として「いじめ自殺」という悲劇を生み出すことに手を貸してしまっているのかもしれません。 この仮説命題から導かれる「いじめ問題」解決策の1つは、「いじめ物語」の呪縛から子ども達を解放せよということになります。 そして本稿では、そのための方法として、「物語の書き換え実践」と「いじめ問題の成立背景を知る」という二つの方法を紹介してきました。 もし、大人も子どもも、「いじめ問題」の成立過程を理解し、「いじめ苦」が自死と結びつくメカニズムを理解できるようになるなら、すでに「いじめ物語」の呪縛からの解放へと踏み出しているはずです。 「理解する」ことこそが、自分の現在を相対化する第一歩であるからです。 とはいえ、これは簡単な解決策とはとても言えそうにありませんし、「いじめ問題」を解決するための可能な一つの選択肢とはいえても「正解」というわけではありません。他にも有効な手立てがあるかもしれないということです。 ただ、いずれにせよ私達が「いじめ問題」の解決を目指すためには、根拠のある仮説に導かれた何らかの解決策を試みながら、それで子どもの世界がどうなるかを絶えず見守り検証しつつ、予想通りに進まなければ必要な修正案や別の対応策を考えていく必要があるのではないでしょうか。 だからこそ今この時に、「いじめられて苦しい」と感じている子ども達を救うために、さらにはいじめられた子ども達が「死にたい」などと思わないですむ社会を作るために、「物語の書き換え実践」と「いじめ問題成立の歴史を子ども達に語りかける」という新たな試みを、学校をはじめいろいろな場で実践して欲しいと思っています。 【著者】 北澤毅(きたざわたけし) 1953年 茨城県つくば市生まれ。茨城県立土浦第一高等学校卒業。東京大学教育学部学校教育学科卒業。筑波大学大学院博士課程終了。日本女子体育短期大学専任講師、立教大学文学部教授を経て、2019年4月から立教大学名誉教授。 専門は、教育社会学、逸脱行動論。主な著書:『少年犯罪の社会的構築』東洋館出版社、『文化としての涙』勁草書房、『いじめ自殺の社会学』世界思想社、『教師のメソドロジー』北樹出版、『囚われのいじめ問題』岩波書店など。