向井秀徳が振り返る上京~メジャーデビュー
音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、向井秀徳をゲストに迎えてお届けする。向井が結成したNUMBER GIRLは1997年に福岡のインディーレーベルより1stアルバム「SCHOOL GIRL BYE BYE」をリリース。当時、東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)で新人発掘を手がけていた加茂啓太郎氏がその作品を手にしたことでバンドの運命は大きく動き始める。 【動画】NUMBER GIRL「透明少女」MUSIC VIDEO(他9件) 取材・文 / 松永良平 撮影 / 沼田学 ■ 刺し殺すような気持ちで臨んだ東京初ライブ ──97年の秋、渋谷のHMVでNUMBER GIRLのCD「SCHOOL GIRL BYE BYE」を手にした加茂啓太郎さんからコンタクトがあったんですよね。 97年の暮れでしたね。東芝EMIの人がライブを観たいと言ってるとAutomatic Kiss Recordsの羽生(和仁)さんから連絡が来たんです。そこで私は非常に構えましたよ。メジャーレーベルの人間がやって来るということに対して。ある意味、敵対心さえ持ってその日を迎えたわけです。そしたら加茂啓太郎じゃなくて、彼の部下である吉田昌弘というディレクターがやってきたんです。それでライブが終わったあとに吉田さんと長時間、話をしてですね。勝手な先入観で偉そうな業界人っぽい人をイメージしてたんだけど、吉田さんは気のいい兄ちゃんみたいな人だったんですね。だから話しやすかった。2人で缶ビールを山ほど会場で飲みました。 ──敵対心があっさり消えた(笑)。 吉田さんとは変に身構えることなく話すことができたんです。しかも、そのときはデビューに向けての勧誘話じゃなかった。今日ライブを観てすごくよかったから、東京でライブをやってみませんか?という誘いを受けたんです。当時の我々は活動範囲がすごく狭い状況だったし、それを広げる方法を知らなかったわけです。吉田さんは仕事柄、下北沢であるとか東京のライブハウスにつながりがあるし、いろんなサポートができると思うと言ってくれて。そこで私は「よし!」と奮い立ったよね。「なるほど、下北沢か」って。下北沢がどんなところかもわからなかったんだけど。 ──福岡でバンドをやり続ける、ではない新しい選択肢がそこで生まれたわけですね。 やっぱり状況的に福岡だけでは頭打ちというかですね、そういうことを思い始めてましたから。CDもリリースしたし、いろんなところに行ってみたいなと。そういうタイミングでお話がありまして、ライブをしに行くことになるんだな、東京に。 ──そして、年が明けて東京へ。 初めて東京にライブで行った日のことは、はっきりと覚えてますよ。会場は下北沢SHELTERだった(1998年3月12日)。ライブの内容はまったく覚えてないけど、その1日はすごく覚えてる。アヒト・イナザワの実家のワゴン車に乗って我々は東京に向かった。NUMBER GIRLの4人、そしてバンド友達の2人が運転とかいろいろでサポートしてくれて。計6人で向かったわけだけど、むちゃくちゃ時間がかかったんですよ。サービスエリアでよく休憩するから15、16時間くらいかかった(笑)。 ──遠路はるばる陸路で行ったんですね。 東名高速に入って東京が近づいてくるにつれて、私の顔が険しくなっていったと、あとになってほかの人たちに聞いたんです。東京に立ち向かっていたんですよね。東京という街の存在に対して負けてなるものかと勝手に思い込んでいた。敵対心。そう、敵対心なんです。必要のない敵対心で挑むわけ。東京という街は「警察24時」というテレビ番組を観る限り犯罪都市であり、東京の人はみんな心が殺伐としてるみたいなイメージを持ってるわけ。東京の人たちに俺らのバンドの音をぶつけるということは、本当に「刺し殺す」みたいな気持ちに近い。それで顔が険しくなっていくわけですね。 ──そこまで思い詰めましたか。 東京の街に入ったら今度は、陸橋を右折するために側道に入らなきゃいけないとか、そういうシステムは福岡にはないから戸惑ったね。「曲がるところ通り過ぎた!」って(笑)。アヒト・イナザワが運転して、私が助手席でゼンリンの地図を見ながらナビゲートするわけだ。下北沢は一方通行ばっかりで、「世田谷迷宮」って呼んでるんですけど、まったくSHELTERにたどり着かないわけですよ。「本当にあるんか?」っていうぐらい。SHELTERに着いたときには夢の中にいるみたいな感じでね。で、初めてのライブをやるんですけども、その内容は覚えてない。必死でやったんでね。つまり誰も我々のことを知らない。誰も知らないところにほっぽり出されたような気持ち。それで、こっちは「上等だ!」って盛り上がるわけだ。「刺し殺してやる!」みたいな感じで(笑)。 ──そこからやがてあの口上「福岡市博多区からやって参りました」が生まれてゆくと考えると、なんとなく自然ですね。 私はまさに福岡市博多区に住んでおりましたのでね。ほかのメンバーは城南区とかに住んでいた。私は博多区に住んでたから「博多区からやってまいりました」ということになるわけ。自己紹介ですね。 ──刺し違えるために名乗りをするという。 仁義を切るというかね。SHELTERっていうライブハウスがまた福岡にない感じだった。東京にはこういう場所がいっぱいあるんだと思いましたよ。ライブのあとに打ち上げをするのは全国共通だと思うんですけど、我々の場合はライブのあとは絶対に親不孝通りの「ふとっぱら」っていう居酒屋の2階に繰り出すっていうパターンだった。 ──97年に出会った夜に行ったのも、ふとっぱらだったかもしれない。 ははは。ビール瓶をぶち割って「なんか? きさん?」っていう声が聞こえてくるようなね、ふとっぱらはそういう雰囲気の店なんです。東京のライブハウスは、終演後に会場で打ち上げをするっていうのをそのとき知ってですね。ドリンクもあるし軽いフードもあったりして、これは楽しいなと。対バンの人たちと話したりしてさ。全然ジャンルが違うような人たちでも打ち上げで飲んだりしたら、いろんな話をすることになるんですよ。楽しかったですね。 ■ メンバー全員仕事を辞めて東京へ ──そこにいよいよ加茂さんが来て? もちろん来てます。SHELTERで1回目にやったときは、会社関係の人がかなり観に来たね。実際に観ないと判断できないっていうのがあったんやろうし。加茂啓太郎に会ったのはSHELTERでライブをやった前の日なんですよ。そのときは何日か東京に滞在したんです。いきなり下北沢に行ったわけじゃなく、まず前日に当時は赤坂にあった東芝EMIに行ってリハーサルをした。5階にあった自社スタジオを使ってリハーサルしていいよと。そこで加茂啓太郎に会いました。楽器を車から下ろしてセッティングしてるときでしたね。第一印象は、うさんくせえなって。そのとき言われたひと言目が忘れられない。「黒夢みたいな歌い方はやめたほうがいいよ」って。 ──え? そんな感じ? 正直ズレとるなと思った。「とにかくボーカルのレベルが低い。聴こえない」。そういうダメ出し。会った瞬間ですよ。こっちはもうただでさえピリピリしてるから「何言っとるんだ、お前?」って。それがファーストコンタクト。福岡で加茂啓太郎とファーストコンタクトしてたら東芝EMIでリリースしてないかもしれない。それくらい印象が悪かった。でも、あとから聞くと加茂さんの中では言いたいことが山ほどあったみたいやね。会ったときには、すでにNUMBER GIRLのファンになっていて、言いたいことがいっぱいありすぎて、ついつい、そういうキツい言葉が出てきたみたいで(笑)。 ──思いが強すぎて告白するときに失敗するパターンみたいな(笑)。でも結局、すんなりと東芝EMIでデビューすることが決まります。 SHELTERでライブをやったあと、東芝EMIからNUMBER GIRLをデビューさせたいと正式に誘いがあったわけですよ。そして、活動助成金みたいなやつをくれることになったんです。そんな大きな金額じゃないんやけど、そこでウヒョー!となって、みんなバイトや仕事を辞めることになった。当時、ギターの田渕ひさ子はまだ正社員でしたからね。そこで私がメンバー1人1人と個人面談したんだね。またしても親不孝通りのふとっぱらで。 ──このバンドに専念するか?って。 意思確認というかね。いずれ東京に移住してバンド活動してデビューする気はあるか? そして今までのように仕事しながらじゃなくて、音楽だけを集中してやることになるから大変なことが待っているよ。その覚悟はあるか?ということを確認したと思うんよね。そしたら全員が「それやらなきゃ、なんばすっとや」って答えてくれた。「里見八犬伝」みたいだ!と思ったね、私は(笑)。とにかく、やろうやろうと盛り上がったわけですよ。そこからデビューの準備に取り掛かるわけよね。片道15時間かけて車で東京に行っては2週間くらい滞在するということを繰り返しました。我々が住んだのは高田馬場のウィークリーマンション。田渕ひさ子は東京に女性の友達がいてそこに停泊していた。男3人はタコ部屋よね(笑)。 ──いわば合宿みたいな日々の始まりですね。 滞在中はEMIが毎日ライブをブッキングしてくれてるもんやから、いろんなところに行った。あれも刺激的だったね。それまで毎日ライブをやることも経験してないからさ。「いっぱしのバンドマンやないか!」って、みんなで話したよね。最初のSHELTERのときから加茂さんや吉田さんがいろんな人に声をかけてくれて。「VIVA YOUNG!」の倉山(直樹)さんとか、あとはスマイリー原島さん、古閑さん(裕 / KOGA RECORDS)とか。まあ古閑さんは呼ばれてなくても、いつもSHELTERにいるんだけど(笑)。みんな個性的なんですよ、これがまた。総じて楽しいなと思ったわけですよ。いろんな人がいるんだなと思ってですね。 ──しかし、徐々にツアーの範囲を広げていったとかではなかったんですね。博多の「チェルシーQ」から、いきなり東京で、連日のライブという展開。 当時はライブのたびに手応えを感じていましたね。こっちのことは誰も知らないんだけど、やればやるほどわかりやすいくらい反応があるんですね。「ただじゃ返さんぞ!」って気持ちで毎回やっていたから、それが届いたんでしょうね。最初期の東京ライブですよね。EMIも手応えを感じたんでしょう。我々は完全に移住することになる。1998年の9月ですよね。 ■ 終わりなき日常の街・渋谷から生まれた「透明少女」 ──デビューするにあたって出した条件は? こういうことをしたいとか、したくないとか。 したくないことはハッキリ言ったんだけど、当時の私はレコード会社と駆け引きをするようなテクニックを持ち合わせてないからね。ただ、メジャーっぽくしたくないという気持ちはすごくあってですね。そればっかり言ってましたね。自分たちのやりたいことを自然体でやりたいっていうことかな。やらされている感じが少しでもあると拒否反応を起していましたよね。 ──そこは大事ですよね。 まあ、そうやって東京での生活が始まったわけやね。そしたらある日、EMIの部長だった子安(次郎)さんという方から、話したいことがあると連絡が入った。みんなで会議室に集まって、デビューにあたってのレクチャーを受けたね。子安さんが作った手書きのパンフレットみたいなのを渡されて。そこには「EMIへようこそ!」って書いてあった。コピー用紙で全部手書きよ(笑)。「EMIへようこそ! 君たちはこれからデビューするにあたって十分にその才能を発揮して我らと一緒に新しい音楽を作り上げよう」みたいなことが書いてあった。あとCDが世に出るまでの仕組みとか、CDが発売されたらミュージシャンがどのように収益を得るかとかの仕組みを教えてくれた。「音楽出版社とは」「著作権とは」とかね。お金の配分も、わかりやすく円グラフで書いてあった。最初にそういう説明があったね。 ──面白いですね。デビュー講義みたいな。 社風というより、子安部長がそういう方だったんだと思う。非常に真摯にバンドのことを考えてくれた。そして全然偉そうじゃない。これも大きかった。 ──だからこそ、ほかのレーベルとの天秤とかもなく、デビューまでスムーズに話が進んだんですね。 相当スムーズでしたね。スムーズというか、その道筋しかなかったんでしょうね。よくある、レコードレーベルが多数押しかけてきてこっちが選ぶみたいなさ。そういうこともなかったし。本当に偶然の出会いですよね。 ──出会いの筋がよかったと。 すべては加茂さんがNUMBER GIRLのCDを手に取ったところから始まったわけです。で、最初にそういう説明があって、CDをリリースするプランをみんなで考え始めた。リリース時期を決めて、そこに向かうある程度のタイムラインみたいなやつを組むんだよね。その時点で「透明少女」を1stシングルにすることは決まっていたんですよ(1999年5月リリース)。「透明少女」は終わりなき日常の街・渋谷でライブをして、高田馬場のタコ部屋に住んでいた日々から生まれたんですよ。ユニットバスにこもって曲を作っていたら、「透明少女」の原型ができた。 ■ 宇多田ヒカルの大ヒットから受けた意外な恩恵 ──博多では「透明少女」は生まれなかった? 確か、渋谷のO-EAST(現Spotify O-EAST)だったと思うんやけど、スーパーカーとイベントで一緒になった日をすごく覚えている(1998年6月28日)。渋谷に対してもこっちはいろいろな思いがありましてですね。どどめ色がかったピンクの街みたいな印象だった。新宿は我々にとってわかりやすい街なんです。博多の中州に雰囲気が似てるから取っつきやすい。でも渋谷という街は独特やった。90年代の現代日本を象徴する終わりなき日常を生きている少女たちがたむろしている街っちゅうかね。そういうイメージがすごくあったし、当時私はそういう少女たちの歌を作っていたから。そして渋谷には実際そういう少女たちがたくさんいたんだな。終わりなき日常を生きている少女たちが。制服を着た少女がライブに来て「NUMBER GIRL、よかったです!」とか言ってくれるわけよ。それまたウヒョー!となってですね。夢の中に生きているような感じだったのを今思い出した。そういう渋谷の街の風景にインスパイアされたんだね。本当にわかりやすい。 ──名曲が生まれた瞬間の話。ゾクゾクします。 「透明少女」ができて、これをデビューシングルにしたいということで意見が一致した。それで東芝EMIのスタジオでレコーディングしたんですけど、音が全然ダメだったんですよ。「これダメ。メジャーっぽい」って私ははっきり言いました。EMIの人たちは「えー!」ってなったんだよね。メジャー第1弾のシングルで、こんなプロフェッショナルなレコーディングスタジオで、エンジニアが付いて、いい音で録音して何がダメなの?って。ただ、私にはあの音が本当に薄っぺらく感じてですね。それで「福岡で録り直す」って言ったんです。「SCOOL GIRL BYE BYE」をレコーディングしたスタジオで、同じプロダクションで、同じやり方。8トラックのMTRでね。そして、車に乗って福岡に戻って録るわけだ。そのやり方でデビューシングルを録音して、それがデビューアルバム(「 SCHOOL GIRL DISTORTIONAL ADDICT」 / 1999年7月リリース)にもつながるわけですよ。 ──まさにそこにメジャーっぽさに対する抗いがあった。 EMIスタジオの音はすっきりしすぎていた。音の分離がよすぎるといいましょうか。薄いなと思った。もっと渾然一体となった音像を求めていたんだね。まあ、それしか知らないから。ライブハウスやリハスタで鳴らしているときって音がグチャグチャですからね。そっちのほうがリアリティを感じるわけですよ。すっきりさせて聴きやすくすればいいだろうというものに対して、我々は「いやこれは足らない」と。空気を全部音で埋め尽くすようなあのドキュメント感、あの混乱状態のロックサウンドをドキュメントしたいと思った。メジャーのプロダクションじゃ無理だと思ったわけよ。そして、それを了承したわけですよ、当時のEMIは。 ──加茂さんが決断した? 子安部長も含めて全員が。なぜ了承したかっていうと「Automatic」予算があったから。 ──あ、宇多田ヒカルの特大ヒットの。 そう。東芝EMIに余裕があった。その恩恵でね。普通に考えたら、そんなこと許されるわけないんですよ。なんの実績もない福岡のローカルバンドがリハスタで録らせてくれって。「メジャーの言いなりになってなるものか!」という反抗期みたいなことではなく、単純に音を録ってみてスカスカだなって思ったわけですよ。絶対に俺が福岡で録ったほうが生々しくなると思ったし、結果的にそうしたことで今がある。宇多田さんには本当に感謝してます(笑)。 ■ ワンカップを空けながら「さて、どうなるものか」 ──今思い出したんですけど、このあたりのタイミングで僕のほうから向井さんにコンタクトを取りましたよね。「リズム&ペンシル」に、ジョナサン・リッチマンにPAとして接したときのことを書いてほしいと依頼して、快諾してくれました。もうデビューは決まっていて、渋谷のO-West(現Spotify O-WEST)で何バンドか出るショーケースライブがあるので、そこに来てくださいという連絡がEMIの人から来た記憶があります。そのライブで紙資料を渡されたんですけど、それが向井さんの手描きマンガだったんですよ。ありがちなインフォメーションとはまったく違ってた。 レコードレーベルの方法論として、デビューするにあたって当時、紙資料というものがあったんですね。紙資料はプロモーションツールです。プロフィールやパーソナルデータが書いてあって、実績みたいなやつが年表であってみたいな。EMIからこういう資料を作りますって言われたんだけど、「つまらんばい! 俺が作る! 全部マンガにする!」って言いました(笑)。表紙から何から全部イラストにしましたね。こっちの個性をアピールするには、レコード会社主導のよくあるテキストでやっても伝わらないなと思ったんですよね。だとしたら結成ヒストリーも含めてマンガにしてやるみたいな。 ──高校時代にTelevisionを聴いて雷に打たれたような衝撃を受けるとか、そういうコマがあったと思います。 そして、マンガを描き終わったら最後に、東京にやって来てこれからメジャーで活動することになった気持ちの表名文みたいなものを書いたんですよ。それを最初のプロモーション資料にしたんですね。 ──それを手書きでやったのは子安部長の資料が手書きだったことも影響してるかもしれないですね。 そうかもしれない。というか、それを見るのは販売店の人や音楽ライターの人だけど、どうしてでも伝えたいという気持ちが大きかったんだね。 ──僕は98年の時点ではまだ音楽ライターじゃなかったんですよ。たまたま向井さんと知り合って、一晩飲んで、アルバムが出たから原稿を依頼したら、EMIからデビューすると聞かされて。そのライブを観に行くことがなければあのマンガは見られなかった。今考えるとそれも不思議な縁だと思いますね。僕自身もライターとしてデビュー前だった当時のいろんなことを今日話してて思い出しました。 私は98年の9月に東京に移り住んだんですが、最初の夜のことは今でも鮮明に覚えていますよ。終わりなき日常の街・渋谷に住もうと思ったから、渋谷に近い代々木八幡の商店街の中にある、当時で築40年の鉄筋アパート風呂なし月額5万円の部屋に移り住んだ。部屋には布団袋しかないんです。ほかには何もない。畳の部屋で、まだほどいてない布団袋を前に、ワンカップの酒を飲んだ。窓を開けると、秋口のちょっとひんやりした空気が漂ってくるわけよ。ワンカップを空けながら「さて、どうなるものか」ということを思ったね。 ■ 向井秀徳(ムカイシュウトク) 1973年生まれ、佐賀県出身。1995年、NUMBER GIRL結成。99年、「透明少女」でメジャーデビューを果たす。2002年のNUMBER GIRL解散後、ZAZEN BOYSを結成。自身の持つスタジオ・MATSURI STUDIOを拠点に、国内外で精力的にライブを行う。また、向井秀徳アコースティック&エレクトリックとしても活動中。2009年、映画「少年メリケンサック」の音楽制作を手がけ、第33回日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞する。2010年、LEO今井と共にKIMONOSを結成。2024年1月にZAZEN BOYSの約12年ぶりとなるアルバム「らんど」をリリースした。なおNUMBER GIRLは2019年2月に再結成を果たし、2度のツアーを開催。2022年8月に出演した「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2022 in EZO」のステージで再び解散することを発表し、12月に神奈川・ぴあアリーナMMでラストライブ「NUMBER GIRL 無常の日」を行った。 向井秀徳情報 ■ 松永良平 1968年、熊本県生まれの音楽ライター。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。