<掛布雅之が語る>前田智徳はイチロー以上の90年代以降最高のバッターだった
24年間の野球生活にピリオドを打った前田智徳選手は1990年代以降で間違いなくナンバーワンのバッターだろう。前田選手は、2つの時代を乗り越えた。ひとつは怪我をする前。ホームランをどこかで意識してフルにバットを振っていた時代で3割は当たり前でホームランも打てる。日本人で常に3冠王を狙える位置にいるバッターだった。 [表]CS出場の広島 ”死んだふり”南海との共通点
初対面の前田にかけた言葉
2度に渡るアキレス腱断裂の怪我を負ってからは、ホームランを捨て、次の時代を切り開いた。2000本安打は、野球の神様が、そんな怪我と真剣に向き合って、努力を続けた前田選手に与えたプレゼントだと思った。 前田選手は、1989年のドラフト4位。私と現役時代は重なっていないが、彼が入団3年目につけていた背番号「31」は、“私に憧れて”という光栄な話も人伝てに耳に入っていた。あれは、いつだったか。甲子園での広島戦の試合前に、山本和行さん(阪神OBで広島投手コーチ)の紹介で、直接、話をする機会があった。私は、彼が首筋に貼っていた磁気テープのようなものが気になって仕方がなかった。 「前田君、その首に貼っているものは外した方がいい。打てなかったときの言い訳をつけているとしか思えない。あなたの技量をすれば、たとえ首が回らないほど体調が悪くとも、レフトへ3本ヒットを流し打つことができるだろう。結果でファンを納得させるべきだ」 今から考えると初対面の若者にずいぶんと厳しい説教めいた話をしたものだが、私は、彼にそれほど大きな期待をしていたのだろう。その試合で、前田選手は、首の磁気テープを剥がし、レフト方向へ2本か3本かのヒットを打った。
不言実行の気骨。「とんでもない選手が出てきた」と思った。 前田選手は、1994年に背番号を「31」から「1」に変えた。そのオフ、私は、緒方孝市選手の結婚披露宴に招待されていて、そこに出席していた前田選手と顔を合わした。 私が「オレを超えたという意味で『1』にしたんだな」と冗談半分に言うと、「そんなことはないです。違います」と、顔を赤くして苦笑いをしていた。