柳宗悦が提唱した「民藝」、100年の歴史で変わったもの、変わらないもの
約100年前に思想家・柳宗悦が説いた「民藝」。衣・食・住をテーマに民藝をひも解く展覧会「民藝 MINGEI─美は暮らしのなかにある」が世田谷美術館にて開幕した。 【写真】「民藝 MINGEI─美は暮らしのなかにある」展示風景 文=川岸 徹 撮影=JBpress autograph編集部 ■ 「民藝」とは何か? 名もなき職人の手仕事に敬意を払い、民衆の暮らしの中の品々に美を見出す「民藝」。民藝という言葉が生まれて、もう100年が経過しようとしている。 「民藝」という言葉の生みの親は、思想家・美術評論家・宗教哲学者の柳宗悦。柳は手仕事の品々の中にある美を紹介するため、1925(大正14)年に民衆的工藝、略して「民藝」という言葉をつくった。翌年には民藝の品々を展示するために、「日本民藝美術館設立趣意書」を発表。柳をはじめ、富本憲吉、河井寬次郎、濱田庄司ら民藝の同人は日本各地を巡り、日常の暮らしで使われている日用品の中から、美を感じさせる品を見出していった。 1936(昭和11)年には倉敷の実業家・大原孫三郎の支援を受けて、東京駒場(現在の目黒区)に日本民藝館を開設。1941(昭和16)年には、伝説的な展覧会として今も語り継がれる「生活展」を開催した。これは日本民藝館の展示室に生活空間をつくり、民藝の品々に彩られたテーブルセットなどを公開する内容。展覧会を訪れた人々に向けて、「民藝とは何か」をヴィジュアル化して分かりやすく提示したのである。 その後、民藝は世界へと広まった。柳宗悦と濱田庄司はサンフランシスコ講和条約が結ばれた1952(昭和27)年に欧米へ渡り、講演やワークショップを開催。61年に柳は世を去るが、1970(昭和45)年の日本万国博覧会には「日本民藝館」が出展され、民藝ブームが起こるきっかけになった。こうして日本の民藝は、世界の「MINGEI」になっていったのである。
■ 民藝の原点と現在を見比べる そして現在も、民藝のあり様は大きく変わり続けている。今もなお、歴史と伝統を守り手仕事に励む産地や職人がいる。その一方で工程に機械を導入したり、デザイナーと組んで新しい民藝を提案したりする人もいる。当初の理念から離れた品々に、正直「これを民藝と呼んでいいのか」と悩むものもあるが、そもそも民藝は生活の中で使われるもの。時代の流れや人々のニーズ、ライフスタイルに合わせて変化していくのは当然のことだ。 さて、世田谷美術館で開幕した「民藝 MINGEI―美は暮らしのなかにある」。展覧会は1階、2階の2フロアで構成されている。1階は柳宗悦の思想と実践を中心に、衣・食・住にまつわる多彩な品を展示。家具、食器、着物、履物、照明器具、箒……。まさにイメージ通りの民藝の世界だ。あたたかな色合いや手仕事ならではの緩いフォルムに心がほっこりと和んでくる。 1階のハイライトは1941(昭和16)年に開催された日本民藝館「生活展」の再現を試みた展示。当時の記録写真を元に、可能な限り忠実に民藝の品々を集めた。部屋の中央に大きなテーブルと椅子が置かれ、その周りに火鉢や食器棚、長卓といった家具が配置されている。テーブルの上には皿、碗皿、蓮華、箸置などの食器セットが4組。燭台や花器も飾られている。今でいうテーブルコーディネートのお手本。当時の庶民はこれを参考に、豊かでお洒落な空間づくりに挑んだのだろう。 2階フロアでは柳宗悦の没後の動向を探っていく。国内を代表する民藝の里から「小鹿田焼」「丹波布」「鳥越竹細工」「八尾和紙」「倉敷ガラス」の5つの産地をピックアップ。かつての品物と現代の製品を展示するとともに、映像を用いてそこで働く人の“いま”を紹介する。 展覧会は、セレクトショップBEAMSのディレクターとして民藝の魅力を広く発信し、現在の民藝ブームを牽引してきたテリー・エリス/北村恵子(MOGI Folk Art ディレクター)によるインスタレーション作品で締めくくられる。2人が世界各地で見つけたフォークアートや現代アーティストに依頼したスカジャンなどがひとつの生活空間で融合し、「これからの民藝スタイル」を感じさせてくれる。 ■ 特設ショップが見逃せない 展示会場を出ると、特設ショップが広がる。これが予想以上にスケールが大きい。やきもの、ガラス工芸、布製品など、全国20以上もの工房・人気ショップが集結。MOGI Folk Artによる別注品も並んでおり、思いのほか長時間、買い物を楽しんでしまった。 展示よりもこちらがメインではと思えるほど。でも、それでいいではないか。鑑賞者が気に入った品を所有することができ、産地や職人が潤い、美術館の来館者が増えれば、みんなwin-winだ。民藝は鑑賞するためだけのものではない。生活の中で使ってこその民藝なのだ。
川岸 徹