「戦死せんと、村の者に顔向けならん」…「地獄のビルマ」を生き抜いた日本軍兵士は、なぜ家族からも疎まれて居場所を失ったのか
村に顔向けならん
平田さんは復員した時のことを次のように記している。 父が畑仕事の帰りで一人待っていてくれた。駅前の広場の石に腰かけていた父が言った言葉「村で仰山の人が戦死している。三人出征して三人共戦死した家もある。うちは三人共帰って来た。お前一人位は戦死して来(ママ)れん事には、村の者に顔向けならん」 親子で人に見られないようにこっそりと村に帰った。 さらに平田さんはこう綴る。 帰りたかった日本。だが帰ったら内地は変わっていた。…生きて帰ってきた者は悪者扱いか、妬まれて、居る場所がない。帰らねばよかったのか…。 戦地に行くときは万歳三唱で送り出されて、「地獄のビルマ」から生きて帰ってきたら、父からも日本社会からも疎まれる……。その時の平田さんは「肩身が狭い」と書いている。 戦地で死んだ戦友も何のために死んだのか……。 戦後の日本は、生き延びた兵士たちには生きづらい社会に様変わりしていた。その変貌にうまく順応できる人ばかりではなかったはずだ。戦場に送られた兵士たちは、加害に加担させられるという被害を被った。戦争を起こした責任者たちは、侵略した国や地域に多大な被害を与えたと同時に、自国の人びとを戦争に駆り立て心身ともに深刻な被害をもたらしたことにもっと真剣に向き合うべきであった。 これは、現代の私たちへの問いかけでもある。兵士を英雄や英霊と表面的に称えることは、そうした事実から目をそらさせようとするものでしかない。平田さんの「ルサンチマン」を深く掘り下げてみれば、「死に損なった」負い目と、ビルマに屍を晒した戦友への憐憫と、変わり身の早い戦後社会への戸惑いなどが入り混じったものだったのではなかったか、と私なりに理解している。 * * * (*1)兵団とは陸軍の編成の基本単位で、歩兵4個連隊を軸に平時2万人、戦時2万5000人が目安。軍の編成は、総軍→方面軍→軍→師団→旅団→連隊→大隊→中隊→小隊→分隊と下に行くほど編成単位が小さくなる(『戦争の作られ方』企画発行ブリッジ・フォー・ピース(BFP)78~79頁)。ビルマ戦線で言えば、南方軍→ビルマ方面軍(森)→15軍(林)、28軍(策)、33軍(昆)→第31師団(烈)、第33師団(弓)、第15師団(祭)、第53師団(安)、第54師団(兵)、第55師団(壮)、第2師団(勇)、第56師団(龍)、第18師団(菊)、第49師団(狼)。括弧内は通称号。インパール作戦は祭、烈、弓の3師団による。 * * * さらに、本連載では貴重な証言にもとづく戦争の実態を紹介していく。
遠藤 美幸(ビルマ戦史研究者)