<高校野球物語2022春>/1 チームのため、真ん中に 大谷の父語る、佐々木麟太郎の強み
米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平が日本選手初の本塁打王を争っていた昨秋、岩手県の母校に本塁打で存在感を示す選手が現れた。花巻東高の佐々木麟太郎(1年)。8カ月で高校通算50本塁打を達成した左打者だ。驚きの成長曲線を探ると、16歳の心が見えてきた。 「1年間で25本の柵越えを打ったんですよ」。麟太郎が所属した岩手県の「江釣子(えづりこ)スポーツ少年団」の監督、大和田成利さん(35)はそう証言する。麟太郎が小学6年生の時の話だ。グラウンドのライト側にある民家にボールが飛び込まないよう、センター方向へ打つことを心掛けていたという。大和田さんは「パワーもあったし、努力家。毎日300回(バットを)振ったと聞きました」と語る。 食べることが大好きで、小学校高学年の頃には、周囲より一回りも二回りも体が大きかった。好きなのは米で、麟太郎は「ここまで体を作ってこられたのはお米の力」と話す。16歳にして183センチ、117キロ。チームメートらによると、1回の食事で弁当一つでは足りずに三つくらい食べたり、弁当とは別に牛丼を買ったりすることもある。 中学時代には、大切な出会いもあった。所属した「金ケ崎シニア」の監督は、大谷の父徹さん(59)。社会人の三菱重工横浜でプレーした徹さんは、型にはめる指導はしなかったが、幼少期の大谷に教えたことと同じことを伝えた。 「左中間に二塁打を打ちなさい」。右方向に引っ張れば柵越えするが、そうではなく、左打者にとって逆方向となる左中間への二塁打を意識させた。走塁や守備では動きの鈍さもあり、体幹トレーニングで鍛えさせた。 ◇パワー社会人並み 徹さんには、忘れられない麟太郎との思い出がある。金ケ崎シニアが社会人のトヨタ自動車東日本の野球教室を手伝った時のことだ。教室に参加した小学生の前で、お手本役として中学3年の麟太郎がホームベース付近でトスバッティングをすると、柵越えに。「トヨタの選手たちも『すごいパワーだな』と驚いていました。当時から社会人並みのパワーがあって、打撃では将来的に注目されるだろうと思っていました」と徹さんは言う。 打撃で周囲を驚かせ続けてきた麟太郎だが、徹さんが強みだと考える部分は他にある。「麟太郎が周囲より抜きんでているのは、バッティングよりもチームに貢献しようという気持ちの強さ」。中学3年で主将に抜てきされると、頻繁にミーティングを開いてチームをまとめた。中学では生徒会長を務め、練習や試合では仲間を鼓舞し、人一倍チームプレー精神があった。その姿は高校に入学した今も変わらない。 花巻東の選手たちが取り組む「目標設定シート」。81マスに自分の目標や目標達成のために取り組むべきことを書き並べ、中央に一番の目標を書く。麟太郎は中央に「チームのために命を捧(ささ)げてプレーする」と記した。 ◇花巻東で日本一に 佐々木洋監督(46)の長男として生まれ、物心ついた頃から甲子園で花巻東の試合を見てきた。大きな影響を受けたのが、花巻東が初出場した2009年のセンバツ。菊池雄星を擁し準優勝した。甲子園のスタンドにいた3歳の麟太郎は、花巻東のユニホームで甲子園を駆け回る自分の姿を思い描くようになった。 その思いは日に日に増した。「花巻東で野球がしたい」。だが、父は息子に他校の野球部を勧めた。親子が指導者と選手になれば、互いのやりにくさも懸念されたからだ。息子の決意は強く、固かった。「花巻東でなければ野球をやめる」 並々ならぬ覚悟を貫き、21年4月、花巻東へ入学した。5月の岩手大会から一塁手で先発出場し、本塁打も放った。11月の明治神宮大会は3試合で2本塁打、その後の練習試合で高校通算50本に。高校通算最多とされる111本塁打の記録を持つ清宮幸太郎(日本ハム)の1年時は22本で、驚異的なペースだ。 50本のうち、12本は公式戦で放った。パワーと勝負強さを支えるのは、憧れ続けたチームでプレーできる喜びと感謝。グレー地に紫色で「花巻東」と書かれたユニホームは麟太郎の誇りであり、プライドだ。「一度きりしかない人生。絶対にこのチームで日本一をとる」【円谷美晶】=つづく ……………………………………………………………………………………………………… 18日に阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で開幕する第94回選抜高校野球大会。憧れの甲子園を目指し、白球を追い続けてきた人々の物語をつづります。