中小企業のおやじは生涯現役 町工場から世界有数の企業に育てた鈴木修氏の経営術
1978年6月、静岡県浜松市に本拠を置く小さな自動車メーカーの社長に就いた鈴木氏。2021年6月に会長を退任して一線を退くまで、43年間にわたってスズキの経営をリードし、連結売上高5兆3742億円、四輪車世界販売台数300万台(いずれも2024年3月期)と、単独で世界トップ10入りが視野に入るまでの規模に成長させた。 【鈴木修氏の歩み】43年間、経営第一線で
転んでもただでは起きない
道のりは決して平たんではなかった。中央相互銀行(現・愛知銀行)の行員だった鈴木氏は、スズキの2代目社長だった故・鈴木俊三氏の娘婿となり、1958年4月に同社に入社した。当時、スズキが採用を本格化していた大卒の企画室に配属されていたエリート社員の一部からは、社長の娘婿として色眼鏡で見られ、確執もあったという。だが、30歳の時、豊川工場(愛知県)を新設するプロジェクトの責任者を任されると、予算以下での立ち上げに成功し、企画室の若手社員を見返した。スズキ本社に隣接する「スズキ歴史館」には、企画室に対する反発からか、1人だけ作業服の前を開け、不愛想な表情の鈴木氏が、豊川工場新設プロジェクトのメンバーとともに収まっている写真が飾られている。 66年にUSスズキの社長に就いて米国事業の再建を任されたものの失敗。しかし、帰国後、常務取締役として駐在した東京で「転んでもただでは起きない」力を発揮する。四輪駆動の軽自動車や軽オート三輪車を手がけていたホープ自動車の創業者・小野定良氏と親交を深め、その縁でホープ自動車が自動車事業から撤退するのを機に四輪駆動システムの製造権を取得した。これを使って開発したのが、70年に市場投入し、今でも根強い人気のある軽四輪駆動車の「ジムニー」だ。 75年にはスズキ最大の経営危機が訪れる。自動車排ガス規制対応の失敗だ。スズキは軽自動車用2サイクルの「エピック」エンジンを開発して、新しい排ガス規制に対応する計画だったが、実用化を断念。四輪車を販売できなくなる危機を迎えた。この時はトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)が支援の手を差し伸べ、エンジンの供給を受けることで危機を逃れた。それでも不運は続く。77年に義父で2代目社長の鈴木俊三氏が死去し、さらに創業者の鈴木道雄氏、社長の鈴木寛治郎氏が相次いで病に倒れた。 暗雲立ち込めるスズキの経営立て直しを託された鈴木氏は、78年に48歳の若さで4代目社長に就いた。そして79年に発売した軽自動車「アルト」でスズキは息を吹き返す。アルトは当初、前年に発売する予定だったが、鈴木氏の指示で開発をやり直した。車両後部に荷物を置くスペースを設け、物品税がゼロの商用車カテゴリーに変更。原価低減も徹底することで、当時、60万円前後が平均的だった軽自動車の市場に、破格の47万円という価格で投入したことで大ヒットとなった。今では当たり前の「全国統一価格」を導入したのも鈴木氏のアイデアで、初代アルトが初めてだった。 アルトの販売が好調に推移したことで、スズキは自社製エンジンを開発・生産する資金も得た。国内の軽自動車市場も活性化し、市場全体が膨らんだこともスズキの業績の追い風となった。スズキはその後も、現在の軽自動車の主力セグメントとなっている軽ハイトワゴン車の先駆けである「ワゴンR」を93年に発売するなどして軽市場をけん引した。 スズキは73年から2006年まで、34年間にわたって軽自動車市場シェア1位を堅持してきた。その後はダイハツ工業に首位を譲ったものの(※注:24年1~6月は1位)、鈴木氏が国内の軽自動車市場を育てたことは間違いない。 鈴木氏は政府や政権与党の税制改正で軽自動車の優遇税制見直しなどが浮上するたびに、先頭に立って「庶民の足」を守るために戦った。1980年代の国内販売に占める軽自動車比率は20%程度だったが、2000年代には30%を超え、今では4割近くを占めるまでに至っている。軽自動車が庶民にとっての「下駄代わり」(鈴木氏)として広く普及したのは、鈴木氏の功績と言っても過言ではない。