なぜ日本は、輸入本数1000万本を突破し、米英に次ぐシャンパーニュ輸入大国になったのか
シャンパーニュ輸入大国、日本はいかにして巨大市場に成長したのか。名門、クリュッグ家6代目当主にして、35年前から日本を知るオリヴィエ・クリュッグ氏が語る。 【写真】1990~1991年、日本の輸入元に勤務していた頃のオリヴィエ・クリュッグ氏
1990年、若きクリュッグ家6代目は市場開拓のため日本へ
今から30年以上も昔のバブル時代。その名のごとく、シャンパーニュのバブルがあちこちで弾けていたと思われるだろうが、実際には違う。1990年から2年間、日本で暮らしていたクリュッグ家6代目のオリヴィエ・クリュッグ氏は、「日本は未熟な市場でした」とその当時を振り返る。 1990年頃の日本人ひとり当たりのワイン消費量は年間1本に過ぎず、シャンパーニュは特別な存在。今でこそ数えきれないほどの銘柄がしのぎを削る日本だが、ʼ90年代初めに輸入されていたのは大手メゾンばかり20銘柄ほど。クリュッグを知る日本人など、ひと握りのワインおたくに限られていたのだ。 しかし、やがて日本がシャンパーニュの消費大国になることを予見した5代目当主、アンリ・クリュッグ氏は、学業を終えたばかりの息子を当時の輸入元に送りこむ。23歳のフランス人にとって、日本は「謎の国」だったという。 「その頃、高級シャンパーニュといえば夜の世界。そこで私は上司と話し合い、レストラン市場を開拓することに決め、まずは日比谷『アピシウス』の小澤伸光さん(現、赤羽橋『月下』店主)に会いに行きました。小澤さんから、将来性のあるソムリエとコネクションを持つようすすめられ、同僚とレストランを一軒一軒回りましたよ」 クリュッグとガストロノミーは、父のアンリ氏と叔父のレミ氏がʼ80年代に推し進めたコンセプト。それ以前はフランスでさえ、シャンパーニュはもっぱら食前に楽しむもので、食中に料理と合わせる習慣はなかったという。これが今日、クリュッグが世界のシェフとコラボレーションする「単一食材プログラム」へとつながっている。
世界第3位の輸入大国へと成長
若きオリヴィエ氏も日本料理とシャンパーニュとの親和性に着目し、当時、ホテル西洋 銀座にあった「吉兆」で、ペアリングイベントを開催。これには他のブランドもすぐさま追随し、旨みという共通言語を持つ日本料理の世界に、シャンパーニュが浸透するきっかけとなった。 しかし、真の意味で、日本でシャンパーニュがブレイクしたのは1995年以降、とオリヴィエ氏はいう。この年に田崎真也氏がソムリエ世界一となり、ほどなくしてワインブームが到来。レストランでシャンパーニュのバイザグラスが始まり、一般人でも気軽に飲めるようになったのもこの頃からだ。 そして2010年頃にはついに輸入本数1000万本を突破し、米英に次ぐシャンパーニュ輸入大国に成長した日本。その陰には先人たちの地道な苦労があったのだ。
TEXT=柳忠之