「自壊の恐喝」「利のある敗北」―格差ある米朝二国の首脳会談と極東の力学
「自壊の恐喝」とその限界
このところの金正恩の挑発と交渉に筆者は、母校(東工大)の教授だった永井陽之助の講義を思い起こした。 やや興奮気味に話す永井の講義は面白く、筆者にしては珍しくよく出席してかなり影響を受けた。アメリカという圧倒的強者に対して「核戦争になっても中国人の半数は生き残り、帝国主義を打ち倒す」という毛沢東の「持久戦ストラテジー」が、西欧的にはきわめて不合理な選択であるからこそアメリカの核万能戦略に揺さぶりをかけ、また日本のような周辺国も「弱者の恐喝」によってアメリカから有利な条件を引き出すことなど、当時には珍しく、平和主義、社会主義、民主主義といった理想論ではない、リアリズムの国際関係を論じていたのである(書物としては永井陽之助『平和の代償』中央公論社に詳しい)。 筆者は、近年の金正恩の挑発と交渉に、この二つの論理の合体を感じる。すなわち「弱者の恐喝」と「持久戦ストラテジー」とを合わせた「自壊の恐喝」とでも呼ぶべきものである。 永井のいう意味とは少し異なるが、強者と弱者の交渉において、弱者がその「テコ」とするのは、破れかぶれともいえる自己破壊によって強者が被るであろう損害の大きさである。戦争は相互の価値を破壊する競争であるから、どちらもやりたくはない。ましてやトランプは、ナポレオンやヒトラーとは違って基本的に経済人であり、自国とその同盟国に被害が及ぶのはできるだけ避けたいのだ。金正恩はそこをついている。 つまり正常とは思われない者が人質を取って立てこもり不当な要求をつきつける事件に近いことが、戦争を背景にした国家間交渉においても成立しているのである。 この「自壊の恐喝」戦略は、太平洋戦争における日本の特攻、イスラム国の自爆テロなどにも近く、西欧の合理的な価値感とは異なる東洋的神秘の衣を被る傾向がある。つまりその底流に歴史的な文化的葛藤が隠れているのだ。 しかし当然ながら、この戦略には限界がある。 弱者が自壊を選ぶほどには非合理的ではないと推測される場合、その非合理的な選択によって被るであろう強者の被害がさほど大きいとは思われない場合、そして危険な弱者を放置することによって将来より大きな危険が生じると予測される場合、そのようなケースにおいて強者は、ある程度の被害を覚悟して弱者の殲滅に動くからである。西欧の文化には、日本人の想像以上にこの種の決断力(危険と犠牲の可能性を織り込んだ合理的決断)が働くことは歴史が示している。 金正恩とそのファミリーは簡単に自滅の道を選ぶほど宗教や思想に取り憑かれているわけでもなく悲惨な生活を送っているわけでもない。最悪の場合の被害の大きさもある程度推定され、この状態を放置することがそれ以上に大きな被害の可能性につながることも明白である。つまり今回、自壊の恐喝戦略は、限界が露呈しはじめているのだ。