「同性婚カップルが子をもつことを認める? 認めない?」…日本人が知っておくべき「同性婚に関する重大な法的知識」
同性婚と人間の性的指向
同性婚は、現代家族法の難問の中でも代表的なものの一つだろう。 日本では、同性婚については、これまでに論じてきたような日本人の法意識から想像されるところとはかなり違って、アンケートでも、賛成する人の割合が近年急増し、7 割前後に至っている。しかし、同性婚は、少なくとも、同性婚カップルが子をもつことを認めるかという点については、考えておかなければならない多くの問題を含むのが事実で、学者の間でも、意見は大きく分かれている。保守なら反対、リベラルなら賛成といった、「パッケージ的に結論が決まってくるような単純なテーマ」ではないのだ。 なお、同性婚という言葉の使い方にも留意しておく必要がある。「同性婚」は、法的には、法律婚(普通の結婚)の一形態として同性間の婚姻をも認めることを意味する。これに対し、前記のとおり、「登録パートナーシップ制度」は、国家が創設するものではあるが、法律婚ではない。ところが、日本のメディア等が「同性婚」という言葉を用いる場合、この相違をきちんと認識していない例が結構多いように思われる。 さて、以上を前提に、まず、性のあり方という問題から考えてみたい。 精神医学を多少なりともかじった人なら知っているとおり、フロイトは、幼児は多形倒錯的であると主張した。多形倒錯的とは、性的嗜好が一定していない状態をいう。いわゆる性的倒錯・逸脱(その範囲は時代と文化によって大きく異なり、フロイトの時代には今よりもずっと広かった)は、上のような幼児期性欲のさまざまな衝動が成人期までに統合、解消されることなく残存したものであって、特定の性欲発達段階への固着、退行とみなしうるとフロイトは考えたのである。 今日では、このような考え方は受け入れがたいものとされるだろう。しかし、フロイトが、未だ性的な偏見がきわめて根強かった時代に、人間の性的嗜好が本来多方向なものでありうるのを当然の前提として右のような立論を行ったことは、やはり、先駆的だったといえるのではないだろうか。 これは私見にすぎないが、人間の性的指向、嗜好は、本来、一定の方向性をもたない、どこに進んでゆくかわからない性質をもっていると思う。それは、人間の性というものが、本質的には人間の高度な意識の所産であり、その意味で「幻想」だからである。この「幻想」は、本書が批判し、なくすべきであると主張しているような「幻想」とは質が異なる。性から「幻想」を取り除いてしまったら、あとに残るのは、寒々とした裸のリビドーだけである。 多数派とは異なる性的指向、嗜好をもつ人々がいつどのようにしてそれを自覚したかを調査した結果によれば、「あるときふとそれに気付いた」というのがほとんどであって、特定の原因など見出せないというのも、先のような事実の帰結だと思う(高名な脳神経科学者エリック・R・カンデルも、その著書『脳科学で解く心の病──うつ病・認知症・依存症から芸術と創造性まで』〔大岩ゆり訳。築地書館〕において、「解剖学的な性別と性自認の不一致であるトランスジェンダーについては生物学的な基盤が明らかにされつつあるが、『性的指向』についてはほとんど何もわかっていない」と述べている)。 以上の理由から、私は、人間の性的な指向、嗜好自体については、それがどのような方向のものであっても価値的な差はなく、したがって、差別されるべきではないと思う。また、他者を傷付けない限り、批判されるべき事柄でもないと考える。
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