二十歳のとき、何をしていたか?/松岡修造 たったひとり、世界で戦った20代。 孤独を知るから今がある、 コートで愛を叫ぶ全力応援団長。
楽をするために厳しい環境へ。 逆転の発想で名門校へ編入。
「スポーツ選手というのは特別なんです。テニスの場合、プロフェッショナルとして活躍できるのは、20歳から大体30歳くらいまで。昔はもっと短かった。そのわずか10年間は、一生の仕事に相当するような密度です。つまり僕が現役を退いた31歳は、会社を勤め上げた60歳くらい。だいぶ感覚が違うと思います」 【取材メモ】松岡さんは海外暮らしが長く、20代の思い出の場所は数少ない。挙げてくれたのは、雨の日によく練習で使ったという品川プリンスホテル併設の高輪テニスセンター。 スーツにぴしっと身をつつんだ松岡修造さんは、優しい口調で、でもはっきりと言い切った。世界を舞台に濃厚な10年間を過ごしたアスリートの経歴は華々し過ぎて、どこから話を聞いていいか迷ってしまう。 「でも、19歳くらいまでは世界で活躍するなんて想像できませんでした。当時、世界に挑戦する人は誰もいなかったので、いけると思ってなかったですしね。ただ、素晴らしいコーチとの出会いなど、偶然がうまく重なったんじゃないでしょうか」 そんな松岡さんのテニス人生は、8歳の頃に姉がテニスをする姿を見て、興味を持ったところから始まる。兄と一緒にやってみたら楽しくて、のめりこんだ。実は父も大学時代に全日本学生テニス選手権大会で優勝した名プレーヤーだったけれど、その話を聞かされることはなかったという。その頃はどんな子供だったんだろう? 「人と違うことをするのが好きな子でしたね。目立つのも好きで。根本に、“周りの人に喜んでほしい”というのがあって、こうしたら喜んでもらえるかな、元気になってもらえるかな、と考えていました」 わんぱくで快活な少年は、やがてテニスに本格的に向き合い始める。名門テニスクラブ「桜田倶楽部」に通い、12歳で海外を経験。慶應義塾中等部のときには、全国中学生テニス選手権大会で優勝を果たした。そして高等部へ進学後、大きな決断をする。高校テニス界に名を轟かせる福岡の柳川高校に、家族と離れ、単身乗り込むと決めたのだ。まだ高校生なのにすごい決断! でも、そこには斬新な思考があった。 「僕はちょっと捉え方が違って、どちらかというと楽なほうを選んだんです。柳川高校というのはすごく厳しい学校で、厳しいぶん、生徒はやらざるを得ない。自分をそういう場に置けば、仮に甘さがあったとしても、鬼コーチがいるからやらざるを得ないわけですよ。つまり自動的にうまくなる」 なるほど、無謀な挑戦のように見えるけれど、松岡さんは終始冷静だったのか。 「そうですね。実は無謀なチャレンジをしたことはないんです。どのくらい失敗しそうか、成功率はどれくらいかを自分なりに調べ上げて、7割成功しないならやらないと決めています。マルかバツかの選択をしない。最悪うまくいかなくても道筋はちゃんと残しておきます。プロになったときも、2年間鳴かず飛ばずだったら大学に戻る予定でしたから」 10代でその境地に辿り着くとは。そして18歳でアメリカのタンパに留学を決め、19歳でプロになった。だから二十歳の頃は、アメリカを拠点にしながら世界を飛び回っていたんだそうだ。 「1年のうち10か月は海外にいて、毎週世界中を回っていました。二十歳の誕生日も、確かヨーロッパで試合でした。二十歳になったってことが、あんまり僕にとって大きなものはなくて。なぜなら19でプロになってるので、自分でお金を稼がなきゃいけないし、自立しなきゃいけなかった。それに、プロになっても、成功して食べていけるっていうのは限られた人だけ。9割以上の人が2~3年でやめてしまうんじゃないですか。その後、大学に戻る人もいるし、テニスコーチになる人もいる。生活できないんですよ。それが23、24歳くらいで決まっていくっていう感じですね」 冒頭の話に照らせば、現役でテニスができる時間はわずか10年ほどしかない。プロになった途端にリミットが見えるとは、スポーツの世界はなんとも過酷だ。さらに、プロになっても成功するかは未知数。アスリートたちがストイックに自らを鍛錬するのは、置かれた環境と立場を常に意識しているからなんだ。