PGAツアー500試合目で使用 66歳ブレイクが思い出のパターについて語る
1991年「ファーマーズインシュランスオープン」の勝者である66歳のジェイ・ドン・ブレイクは今週、地元ユタ州で開幕した「ブラックデザート選手権」でPGAツアー500回目の出場を果たした。ブレイクは、新たにPGAツアーに加わった開催コースから至近のセントジョージにあったトレーラーパークで少年時代を送った。 【画像】PGA選手の証 大西魁斗のネーム入りツアーカード
水曜日の記者会見では、家族が舞台左手に着座するなか、PGAツアーへの復帰について郷愁、感情、ユーモアを織り交ぜながら語った。すでに故人となった両親への感謝、誇り、そして追悼を胸にプレーする今週のブレイクにとって、両親は単に思い出以上の存在となる。 今週は父への追悼として、50年以上前に父親から贈られたタイトリスト「ブルズアイ“ディープフェース ジョン・ロイターJr.デザイン”オリジナルパター」を使用している。 「僕は子どもの頃、当時は人気だったブルズアイと呼ばれたパターを使っていた。これを持っているのはカッコいいことだったんだ。これまでいくつか所有してきたし、父からもらったパターがこのブルズアイなんだ。恐らく52か53歳になると思うよ。ずっと部屋の角にあって、いつもそこに置いていたんだよ。これでパットするときは、いつもかなり上手くパットしているように感じてきた。これを実戦で使うかどうか考えていたんだ。と言うのも、パターがしっくりくるのを感じるのは良いことだけど、これは父への追悼だから」 1940年台半ばにジョン・ロイターJr.が設計したオリジナルのジョン・ロイター ブルズアイパターは、当時革命的な物だった。それまで、ほとんどのパターはシャフトがパターヘッドのヒールに接続されていた。そのスタイルのパターで最も有名なのが、ボビー・ジョーンズの「カラミティジェーン」である。 ロイターJr.はもっと振り子のように感じられるパターを模索した。ブルズアイパターは、ロイターJr.がシャフト軸のポイントをパターヘッドの中央へ近づけたことで、この類では最初に登場したパターとなった。この変更により、ボールを打った際のねじれが軽減され、より寛容性が高まった。アクシネット社(タイトリストを展開)がロイターJr.の会社を買収したのは1962年のことだったが、彼の発明は今でも目にする。この設計は広く行き渡っており、プロの大会から地元のミニチュアゴルフに至るまで、今でも使われている。 ブレイクとブラックデザートリゾートの歴史は長い。「初めて(ブラックデザートで)プレーしたときは、このゴルフコースの景観に圧倒されたんだ。溶岩や美しいグリーンの芝やバンカーにね。心の片隅には、このすぐ近くで育ったという思いもあった。ただ、それを実感したのは2度目にプレーした時のことで、その時は溶岩の突き出た半島のような場所にたたずむ時間があって、自分の育ったトレーラーパークのあった谷間を見下ろしたんだ。そこに立って、もしかしたら子どもの頃、全く同じ、この溶岩の半島のように突き出た場所に立ったことがあったかもしれないとの思いに駆られたんだ。この谷へはよく来たものだし、ここにはまだ何もなく、ただ溶岩があり、ヤマヨモギが生えていて、僕の追っかけていたウサギがいただけだったんだ」とブレイクは回想した。 「今では、このコースでプレーする際は、いつもここでの時間をそういう風に捉えているし、両親がいないのを寂しく思うんだ。家族や両親は素晴らしいサポートチームだった。特に母がそうだったね。母は色々なジュニアの大会へ連れて行ってくれた。セントジョージ周辺には、あまりジュニアの大会はないから、僕らはいつだって、大会に出場するため、北にあるソルトレイクへ行かなければならなかった」 「夜に車で移動し、車で寝ることも何度かあったね。朝になって目を覚ますと、準備を整えることのできるガソリンスタンドに寄ってシャワーを浴びてスッキリし、ゴルフクラブを引っ張り出すと、その日にジュニアの大会でプレーして、そのまま車で帰宅するんだ。僕らはそれを何年か続けた。受けてきたそのサポートは、PGAツアーの場でも引き継がれたんだ。ゴルフコースには僕とともに歩く母の姿があったからね。僕が母を誇りに思うのと同様に、母も僕を誇りに思っていた。とにかくこれは夢のようなシナリオだ。誰もが両親の長生き、そして両親がこのような素敵な瞬間をエンジョイできるように願うものだけど、僕は両親がこのチャンスを与えてくれたことにとても感謝しているんだ。あの谷間は、毎回見下ろしているね」