<私の恩人>高田純次、ウケなくても使い続けてくれた…だから今の自分がある!
さらに、本当に緊張してたんでしょうね、僕があまりにも力を入れすぎちゃって、気づいたら、メンバーの顔から血が流れてたんです。そんなつもりはなかったんですけど、やっぱり、気負いがあったんでしょうね。 そのような感じですから、最初の1ヵ月はまったくウケなかった。一方で、同じく番組に出演していた「B&B」とか「ツービート」はウケまくってました。そうすると、スタッフの中にも「もうこれ以上『東京乾電池』を出すのは、逆にかわいそうなんじゃないか」という空気も出始めたんです。でも、横澤さんは使い続けてくれた。今でも、よく使い続けてくれたなと本当に思います。 そうすると、2ヵ月くらい経った時からですかね。だんだんウケるようになってきて、視聴率のグラフを見ても、僕らのコーナーで上がるようになってきた。そういうのがあると励みになりますから。そこからですよね、おぼろげながら、テレビでの手ごたえを感じ始めたのは。 結局、「笑ってる場合ですよ!」が2年、その後「笑っていいとも!」にも出してもらって、その流れが「ひょうきん族」につながり、それがさらに「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(85~96年、日本テレビ系)につながっていったんです。となるとね、本当に全部がつながってるんですよね。その原点を作ってくれたのが、横澤さんなんです。 2011年に横澤さんが亡くなる少し前、京都の川床料理のお店で、横澤さんご夫婦とご飯を食べたんです。そこで「これからも時代とともにバラエティーの形は変わっていくだろうけど、キミは変わらず頑張って」と言われました。何歳で死ぬかは分かりませんけど、その日まで、テレビで映してもらっているというのが、恩返しになるんでしょうね。 僕も67歳。もういい歳ですからね。仕事における座右の銘というのは…、ま、特にないんですけど(笑)、一つ決めているのは、とにかく仕事の現場に行くということですね。エッ?当たり前ですか。それはね、心掛けてますよ。