第一線を退いた上田桃子。彼女の活躍を追い続けたライターが20年の活躍を振り返る
上田桃子がプロ入り20年目の2024年、第一線を退いた。日本での最年少賞金女王(当時)を引っ提げアメリカツアー挑戦、帰国後もゴルフ界を引っ張り、長く中心で走り続けてきた。そんな桃子の20年を、「週刊ゴルフダイジェスト」2025年1月7・14日合併号では、近くで見てきたライターが思いを込めて桃子の魅力をつづっている。「みんなのゴルフダイジェスト」では一部抜粋してお届けしよう。
上田桃子
1986年、熊本市で生まれた上田。9歳でゴルフを始め、05年プロ入り。生涯で450試合に出場し、日本ツアー16勝、米ツアー(日米共催含む)2勝、通算獲得賞金額は10億9476万4906円(6位)に上った。
「桃子について書いてほしい」 編集部からそう言われて、すでに10日以上悩み続けている。20年のツアー生活を離れ、「一度クラブを置く」と言う上田桃子。私にとっての20年は、何から書いていいのか、何を書いていいのか迷い続けるほど濃厚な時間であった。 桃子のツアー生活での最高の勲章は、07年の史上最年少の賞金女王でもなく、同年のミズノクラシックでのアルバトロスでもなく、私は23年シーズンだと思っている。プロ19年目のこのシーズン、桃子は28試合に出場。優勝こそなかったものの11試合でトップ10フィニッシュ、何より注目すべきは予選落ちが1試合もなかったことである。桃子が「妹弟子」とも呼ぶ小祝さくらや吉田優利らに言い続けた口癖は、「プロだったら絶対にゼロ円で帰るな! 」 23年シーズンは、そんな言葉通りの桃子らしいゴルフをした時間だったし、それは勲章だと思うのだ。
鼻っ柱の強さは今も変わらぬ魅力だ
桃子と初めて会ったのは04年。当時、私は神戸ETGA(江連忠ゴルフアカデミー)の役員をしていた。そこにやってきた桃子は、プロ志望の高校生の一人にすぎなかった。 正直、それほど強い印象もない。アカデミーには当時、江連が中学生時代から指導する諸見里しのぶ がいた。この年、しのぶは日本女子アマを制し、日本女子オープンではローアマになったがしかし、「優勝できなかった」と泣いた選手。 これに対して桃子は、日本と名の付く大会に出たこともない。同じ歳ではあったがまさに明と暗で、実力的にも注目度でも天と地ほどの差があった。しのぶは室内の3打席を、片山晋呉らとともに使用が許されたが、アマチュア時代はもとよりプロになった当初も、桃子の練習場所は屋外のベアグラウンド。しのぶ目当てで取材陣がひっきりなしに来たが、桃子は見向きもされないどころか、ある編集者から「そんなこともできないの?」と小馬鹿にされ、号泣したこともあったほどだ。