妻は「見ているだけで気が狂いそうだった」石原裕次郎は“がん発覚”で痛みに苦しみ…ただ一人告知を考えた“ある人物”
〈「血管が破裂すれば死に至る」大手術→“奇跡の生還”から間もなく…“銀幕スター”石原裕次郎はなぜ病院の屋上に姿を現した?〉 から続く 【画像】大手術から生還後にワイン色のガウン姿で…慶応病院の屋上に現れた入院中の石原裕次郎 石原裕次郎のデビューのきっかけは、兄・石原慎太郎の芥川賞受賞作を映画化した『太陽の季節』。当時、日活のプロデューサーだった水の江瀧子の目に留まり、『狂った果実』主役に抜擢。このとき、相手役をしたのが北原三枝で、二人は恋に落ちるのである。 以降、日活の顔として、90作もの青春映画に出演。日本人らしからぬスタイルの良さと、インテリ不良的なムードで時代をも魅了した。愛称は、タフガイ・裕ちゃん。「嵐を呼ぶ男」など、自ら歌った映画主題歌も飛ぶように売れた。歌手として全国縦断コンサートを初めて行ったのも裕次郎である。 1963年に「石原プロ」を立ち上げ、映画を製作。途中経営不振に悩まされるも、テレビへと移行する時代の風に乗り、「太陽にほえろ!」「西部警察」が大ヒット。石原プロの俳優は「石原軍団」と呼ばれ、大人気を博した――。(全3回の2回目/ #3に続く ) ◆ ◆ ◆
「タフガイ」のニックネームのウラ側で…
彼に訪れるチャンスは大きかったが、肉体的トラブルがセットだった。 周囲の猛反対を押し切り、北原三枝と結婚をした26歳のときには、スキー事故で複雑骨折。全治8か月で俳優生命が危ぶまれている。 その後「俳優は人生の職業にあらず」と、1963年に映画製作を目指し、石原プロモーションを設立。5年後の1968年に、同じく映画プロダクションを設立した俳優三船敏郎とともに、製作費4億円を投じ『黒部の太陽』を作り上げる。 しかしこの映画のダムの決壊シーンでは、出演者の多くが、420トンの水と石の破片に飲み込まれてしまうトラブルが起きていた。そのなかで一番大ケガをしたのが裕次郎。撮影用ケーブルが身体に絡まり気絶。大量の水を飲み、左大腿部打撲、右手親指骨折。指先の指紋は砕石にこすられ、なくなっていたというからすさまじい。 苦難を乗り越えできあがった『黒部の太陽』は、観客動員数は約733万人、興行収入は約16億円。この年の国内最大のヒットを記録した。