キャスター草野仁がホリエモンに「実際会ったら印象全然違う」と感じたワケ
プロ野球のあの名監督も外のイメージと全然違った
また、読売巨人軍の監督だった川上哲治さんのことも思い出深いです。 川上さんは戦前からプロ野球のスターとして活躍され、読売巨人軍の監督としても、11回の日本シリーズ制覇を成し遂げられました。中でも9年連続日本一という実績は、プロ野球史上最高の偉大な金字塔となっています。 川上さんも、外から聞くイメージとは違う面をいくつも見せてくださいました。 私がスポーツの取材を始めた頃、川上さんはすでに読売巨人軍の大監督で、取材のときはいつもベテラン記者に囲まれていました。新人の私は、人垣の後ろから聞き耳を立てるというありさまでした。 川上さんは口の重い方で、なかなか記者に話をしてくれないことで知られていました。 その様子は、当時の共産主義圏と自由主義圏の間の対立を指した「鉄のカーテン」という言葉と、お名前の「哲」とを引っかけて「哲のカーテン」と呼ばれていたほどでした。 1975年に読売巨人軍を退団された川上さんは、NHKの野球解説者に就任されました。そして私はいきなり、その年のプロ野球の春期キャンプの取材で、川上さんとの同行を命じられたのです。 今までまともにお話もしたことがないのに、どうやって接近しようか。自分なりにいろいろ悩みましたが、まずはしっかりご挨拶に伺いました。 すると、「やあ、よろしくよろしく」とおっしゃり、監督時代とはまったくイメージが違うのです。お話を伺っていくと、監督時代に口の重かった理由がわかってきました。
記者の質問に誠実に答えられなくなった残念すぎる理由
川上さんは、初めは記者の質問に誠実に答えていたそうです。 しかし、翌日のスポーツ紙には、自分の発言の一部を切り取られ、少し意味の違う使い方をされている。これでは、記事を見た選手たちが「監督はこんなことを思っていたのか」と誤解しかねない。 そんなことがたびたび起こったので、聞かれたことに全て答えるのをやめて、発言をセーブするようになった。そうしたらチームがよい方向にいったので、あえて「哲のカーテン」を引いた状態でいたのだと教えてくださいました。 私はそれを聞いて、「なるほど、そこまで考えてやっていらっしゃるのか」と、川上さんの真の思いに気付かされました。 キャンプ中には当時の選手たちのことや、チームとしての力を結集するために行っていた努力など、さまざまなお話を伺いました。そして、川上さんのことを知れば知るほど、本当にすごい人だなという思いを深めていきました。 そして約1カ月のキャンプが終わり、3月のオープン戦で川上さんがNHK解説者として初登場することが決まりました。そこで局側から、何と「キャンプでずっと一緒だったんだから、お前が放送しろ」と、試合の実況を任されたのです。 入局してまだ9年です。10年、20年、いや30年、そうそうたるキャリアをもつ先輩アナウンサーがいる中で、大監督だった川上さんの、解説としての初仕事にご一緒できるなんて、「こんなに感激するような仕事はないな」と、うち震える思いがしました。 いよいよその日、私は試合前、放送席で、 「川上さん、くれぐれもよろしくお願いいたします」と言いました。 すると川上さんが、 「草野さん、今日はね、あんたが放送の先生。私は生徒なんだ。だから、いろいろと気付いたことがあったら、それをダイレクトにバンバン言ってほしい。私のほうこそよろしく」と言ってくださいました。 大監督からそのような言葉をいただいて、私は大変安心して放送を終えることができました。周囲からも「なかなか面白くてよかったよ」と評価をいただきました。 監督という立場を離れても、いかに川上さんがいろいろなところに目を配り続けていらっしゃるか。それがよくわかった経験でした。
※本記事は『「伝える」極意』を再構成したものです。
執筆:草野 仁(キャスター)