人間国宝・中村歌六「幼稚園には行かされず、いつも祖父の楽屋の鏡台脇に。病弱の父に代わり、大叔父十七代目勘三郎を師匠とし」
ここで五代目歌六さんの家系図をざっと紹介すると、三代目歌六を父とする初代吉右衛門、三代目時蔵、十七代目勘三郎の名優3兄弟。歌六さんの父は三代目時蔵の長男だが、早世したため四代目歌六を追贈された。 ――僕は子福者だった三代目時蔵の初孫なんで、もう大変に可愛がられましてね、幼稚園には行かされず、いつも祖父の楽屋の鏡台脇におりました。 初舞台は昭和30年9月の初代吉右衛門一周忌追善興行。5歳になる少し前に米吉を名乗って出るんですが、初舞台のくせに4つも出てるんです。「口上」と、『夏祭浪花鑑』の団七倅市松と、『二條城の清正』の秀頼と一緒に出る公達の役と、「お土砂」(『松竹梅湯島掛額』)の丁稚。こんなにいくつも出る初舞台は前代未聞です。 祖父はそれから4年ほどで亡くなるんですが、何しろその最後の言葉が、僕の本名は進一ですけど、「進坊をみんなで可愛がってやってくれ」ですからね。だから、(萬屋)錦之介や(中村)嘉葎雄(当時は賀津雄)の叔父たちが、「俺たちのことなんか何にも言わなかったね、うちの親父は」って言って苦笑いしてました。 でも錦之介の叔父は子供好きだから撮影所にもよく連れてってくれましたよ。我が小川家全員が叔父の映画『お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷』に出たことがあって。祖父も、親父も、四代目時蔵や嘉葎雄の叔父も、僕も子役で出て、一家総出演。
◆十七代目勘三郎に怒られながら 歌六さんの父・二代目歌昇は病弱だったので、早くに舞台から遠ざかり、以後脚本家として活躍した。だから歌六さんの実際の師匠は、大叔父に当たる十七代目勘三郎と言える。 ――勘三郎の大叔父が僕を役者にしてくれたようなものなんです。ずいぶん怒られましたけどね。怒られた量は僕が一番だと思う。(笑) 役者は役がつかなきゃ教わりにいくわけにはいかないんです。その点、昔の国立劇場はすごかったんですよ。青年歌舞伎祭といって、若手の勉強のために小劇場を8月いっぱい開放してくれたんです。そこで3日間くらいずつ会場を取り合って、勉強会を開いてました。 僕たちの「杉の子会」には私や哲明(十八代目勘三郎)ちゃんや(五代目)時蔵さん、弟の又五郎、信次郎(二代目錦之助)くん、岡村清太郎(清元延寿太夫)くんや(市村)家橘さんもいて、それはもう十七代目のおじさんが100パーセント、厳しくお稽古してくださるから、他の役のことも覚えられるし、いい勉強になりました。 他にも(二代目)白鸚兄さんと二代目吉右衛門兄さんの「木の芽会」。亨兄さん(初代尾上辰之助)や菊五郎兄さんたちの「あすなろう会」。成田屋の先代團十郎兄さんたちの「荒磯会」や、澤村藤十郎兄さんとか、(市川)段四郎さんもやってらしたし。 国立が何年間か便宜を図ってくれて、とにかく会場費がかからないから、そこそこの赤字くらいで勉強会ができた。あれでみんな引き出しを増やすことができたんですね。
【関連記事】
- 人間国宝・中村歌六「歌舞伎役者としてのお稽古ごとの一環で、劇団四季の養成所に2年。歌やバレエのレッスンも。伝統文化門閥制の意味」
- 尾上松也「20歳の時に急逝した父、女優を辞めた母。志半ばで僕にバトンを渡してくれた、2人の思いを無にすることはできない」
- 林与一「NHK大河『赤穂浪士』の堀田役で大人気に。主役の長谷川一夫さんからの『日本中の男優を敵に回したよ』の言葉は今でも勲章」
- 人間国宝・片岡仁左衛門 3月で79歳。『与話情浮名横櫛』の与三郎役を掘り下げる時、忘れてはならないのが〈品〉ですね
- 渡辺謙「30代の急性骨髄性白血病発症で死生観が変わった。ハリウッドの『ラスト サムライ』が大きな転機に。ブロードウェイの舞台にも立ち」