角盈男は地獄の伊東キャンプでオーバースローからサイドスロー転向を決断 「何球でも投げられる」
78年の公式戦が開幕し、目標どおり一軍入りを果たした角は4月4日の大洋(現・DeNA)戦でプロ初登板。三番手で2回を無失点に抑えると、同16日のヤクルト戦で初先発し、同29日のヤクルト戦では初セーブを挙げた。順調にスタートした1年目は60試合に登板して5勝7敗7セーブ。112回1/3を投げて防御率2.87という成績を残した。 5勝の内訳は、6試合の先発で2勝、54試合の救援で3勝。加えて7つのセーブを挙げた貢献度、2点台の防御率も評価され、角はセ・リーグ新人王に選出された。実質リリーフでの成績が評価されたわけだが、巨人のリリーフで新人王と言えば、2022年の大勢。37セーブを挙げたが、これは角の球団新人最多セーブ記録を更新したものだった。 「大勢には軽く超えられたけど、今の抑えは1イニングですからね。僕の場合はリリーフで2イニング、3イニングと投げながら谷間の先発もあって、ガンガン使われたんで、がむしゃらにやるだけだった。それが1年目はいいほうに出て、2年目は悪いほうに出て......」 2年目の79年。「悪いほう」の象徴が6月3日の阪神戦だろう。5対5の同点で7回から登板した角は、8回に3連続押し出しで敗戦投手。1年目も7月6日の広島戦、先発・浅野啓司が2回に3連続四球の押し出しで降板後、二番手の角もふたつの押し出し、タイムリー、四球で降板。三番手の田村勲も3連続押し出しと全員が乱調だったが、角は四球の多さが一番の課題だった。 「ノーコンでしたから。押し出しの時も、とにかくストライクが入らない。言葉にすれば、一生懸命に投げるだけでした。たぶん、ピッチャーとしてはプロじゃなかったんでしょうね。それまでピッチング自体、習ってなかったし。だから僕のピッチング人生は、そのあとの伊東キャンプがプロとして本当のスタートですよ。1年目、2年目はアマチュアの延長でしたね」
【人生を変えた地獄の伊東キャンプ】 のちに「地獄の伊東キャンプ」といわれた静岡・伊東市での秋季キャンプ。チームが前年2位から5位に下降し、当時監督の長嶋茂雄がコーチ陣に向け、「巨人の将来を背負って立つ若手を徹底的に鍛えたい。血反吐(ちへど)を吐かせるまでやる」と要請して実施。参加メンバーは投手6人、野手12人と少数精鋭で、走り込みと筋力強化を中心にハードな練習を課したことで「地獄」になった。 「極端に言うと、午前中は投げるだけ、午後は走るだけ(笑)。そのなかでコーチとマンツーマンでやったんだけど、最初に言われたのは『おまえのいい時はすごい。悪い時はアマチュアになっちゃう。残念ながら、プロ野球はシーズンが長いんで、安定した力を求めなきゃいけない。だから、安定したボールを投げられるようなフォームでやっていこう』ということでした」 投手コーチは杉下茂(元中日ほか)、木戸美摸(元巨人)、高橋善正(元東映ほか)。「マンツーマン」と言っても一対一ではなく、コーチ全員と取り組んだ。投手は角のほか江川卓、西本聖、鹿取義隆、藤城和明、赤嶺賢勇と少人数だからこそできる「マンツーマン」だった。 「で、『ヒジをとにかく上げろ。直す時は極端にやらなきゃダメだ』と言われて。実際にヒジを上げて投げると、70~80球ぐらいを過ぎるとしんどいんです。当時はみんな1日に300球ぐらい放っていたので、必然的に腕の振りが横になってきた。そのほうがスムーズで、しんどくないんで。これだったら何球でも放れるし、投げるボールに責任持てるなって思って」 フォーム改造に取り組むなか、ある意味では自然に腕の振りが横になっていた。じつはコーチたちには、角をサイドスローに変えようという発想はまったくなかった。 「だから最初は反対されました。自分でコントロールミスを修正できるようになって、キレのあるボールがいっていても、コーチたちには心配されて。でも、自分は横から投げたい──。だったら、ということで、長嶋監督のところへ連れて行かれました」 (文中敬称略) 後編へつづく>> 角盈男(すみ・みつお)/1956年6月26日、鳥取県出身。米子工業高から三菱重工三原を経て1976年のドラフトで巨人から3位指名を受けるも保留し、ドラフト期限前に入団。プロ1年目の78年、5勝7セーブで新人王を獲得。制球力に課題があるため、79年の秋季キャンプでサイドースローに転向。81年には20セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得し、チームの日本一にも大きく貢献した。89年に日本ハムヘ移籍。92年にヤクルトに移籍するも同年に現役を引退。その後はヤクルト、巨人でコーチを歴任。現在はスナックを経営する傍ら、タレント活動や野球評論家としても活動中
高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki