自宅で死んでいたかもしれない? 作家・元外務省主任分析官 佐藤優が語る、「死生観」を持つことの必要性
他者の命を考えた上で生きる
ダイエットのためにいいと言われている、GLP-1という薬があります。 これはインシュリンを多く出し、血糖値を下げるので、2型の糖尿病の人にとって非常に重要なものです。ところが、最近では大学病院でもこの薬が手に入りにくくなっています。 なぜなら、GLP-1のほとんどが美容クリニックに流れているからです。 このような大事な薬を、ダイエット目的で高いお金を出し、病人ではない人が買ってしまうと、2型糖尿病の重い人など、薬があれば助かる人、その人たちの命を奪ってしまうことになるわけです。 ダンテの『神曲』では、キリスト教の七つの大罪で「大食い(暴食)」がすごく重い罪になっています。これは食料がギリギリで回っている時代に大食いをする、そのことが他の人を飢えさせるということになるという意味があり、「大食い(暴食)」だけで地獄に落ちてしまいます。 今それと同じことがGLP-1という薬で生じています。ダイエットや肥満対策用に糖尿病用の薬を使ったら糖尿病の重い患者の人たちの命を奪う可能性もあるということに、考えが及んでほしいのです。 自分の生死だけではなくて、他人の生死にも目を向ける、自分のやっていることは、人の命を縮めているのではなないかと思い及ぶことが大切です。 未来の人の命も考えないといけません。環境にしても今我々の世代が資源を使い切ってしまうと、未来に生まれてくる人たちのエネルギーがなくなってしまいます。 国債だってそうです。国債は返還にあたる未来の人たちと約束していません。まだ生まれてない人たちにも、借金を背負わせることになるわけです。そういうことをしていいのか? ということも、実は死生観とすごく関係しています。
死生観を社会的に捉える意味
「死生観」というと、どうしても個人的なものであり、自分の命のことだけで捉えてしまいがちですが、他者を含めて社会的に捉えないといけないものです。 ただ、「死生観」を社会的に捉えた場合、例えば極端にいうと「国のために死ね」という方向に走ってしまうこともあります。 有名な「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉は、『葉隠』のほぼ冒頭にあります。 この後に続く言葉は、「二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり」です。 これを現代語で言うと、「生か死かいずれかを選ばねばならない場合は、ただ死を選ぶということであり、それ以上の意味はない。覚悟して、ひたすら突き進むのみである」という意味になります。簡単にいうと、生か死かという二者択一であった場合、武士は死を選ぶべきだと言っているのです。 生よりも死を重視するという点では、西洋の合理主義思想が導入され、生きることの素晴らしさが強調された近代日本の考え方とは真逆の前近代的な思想であると言うことができます。 日本において軍国主義者が跋扈した時期に、『葉隠』がそのレジームを支えるためのイデオロギー装置となった事実は変えられません。 大義のために自らの命を投げ出すことに意義を求める思想は、一見、賞賛すべきもののように思われますが、もしも一人一人の命よりも国家といった大きなものの方に価値があると認めてしまえば、それは国家至上主義としてのナショナリズムの高揚を目指すことと同義となってしまいます。 このような考え方に対抗するには、きちんとした価値観が必要です。 それらを併せての死生観なのです。 しかし、われわれが現在の時点でいろいろなことを考えようと思っても、だいたいのことが、かつて誰かが考えていたこと、過去の誰かがやっていたことだと気づきます。 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」は私の死生観と相いれないものですが、多面的に死の本質を知るためには、古今東西の死生観を巡る言葉を学び、それが自分の死生観と異なるものであっても、死についての偉人の言葉を知ることは、死に対する思索を深めることに役立つはずです。 したがって、今回、新星出版社よりリリースした私の著書『死の言葉』のような語録が重要になります。生死についても人間の生き方についても、過去の人たちが考えていることを再解釈していくということがとても大切なのです。 この本には古今東西の死生観を巡る言葉がランダムに並んでいますが、読者の皆様には様々な視点からそれらを解釈することを切望します。 『死の言葉』が「死」を巡る様々な知見を学ぶ一助になることを、心から願っています。 [文]新星出版社 写真 中川晋弥 協力:新星出版社 Fun-Life! Book Bang編集部 新潮社
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