自宅で死んでいたかもしれない? 作家・元外務省主任分析官 佐藤優が語る、「死生観」を持つことの必要性
親ガチャから受けた恩恵を隣人に返す
世の中には足の速い人もいれば記憶力のいい人、手先の器用な人もいて、適性と社会的必要性が絡んできます。キリスト教的な死生観においては、使命感はものすごく重要なものであり、この使命感は個人の能力や適性により変わってきます。 つまり、自分の好きなことだけやっていればいいということにはなりません。 例えば、適正と技術、才能がない。でも自分は陶芸が好きだから壺だけ作って生きていきます。私は声優にあこがれているから、声優の仕事しかやりません。 このように、みんなが好きなことばかりをやっていたとしたら、社会は大変なことになります。 そう考えると、近年話題になった「親ガチャ」と言われる問題も全く違ったものに見えてきます。 親ガチャとは、生んでくれた親の環境によって子どもの成育状況や将来が違ってくることです。 いわゆる銀の匙をくわえて生まれた人といってもいいのですが、スマホゲーム風の言い方をすると「SSR(スーパースペシャルレア)確定ガチャ」を引いたということになります。 つまり、神様から究極的な親ガチャをもらったから、成功したのです。その後の人生で成功した人は、自分の努力でそうなったのではないということになります。 では、よい親ガチャをもらったならば、どうしなければいけないでしょう? もらった恩恵は誰の所有物でしょうか? キリスト教の教えでいうと、それは「神の所有物」です。 そして、神はその恩恵を自分で独占するのではなく、隣人に返せと言っているわけです。 ですから、成功した人間、富を持っている人間は、自分の力で得たものではないから、神からの恩恵は隣人に返すのは当たり前で、見返りを求めていけません。 われわれキリスト教の人間から考えると、「贈与の連鎖」が成り立っている世界が理想なのです。 自分の持っているもので、余っているものを人にあげる。人が「これをあげるよ」と言ってきた場合、自分が欲しいものがあったら、遠慮しないでもらう。そういう連鎖の世界というものが、理想的なのです。