齋藤飛鳥、歳を重ねることへの覚悟と信念「生き方さえダサくならなければ、それでいいかな」
『Quick Japan』vol.175(12月11日発売)で90ページの総力特集に登場した俳優・タレントの齋藤飛鳥。 【写真】紙吹雪に包まれ、笑顔を見せる齋藤飛鳥 華やかで巨大なステージを降りて、少しの休息期間のあと、彼女はまたゆっくりと変わり始めている。多くのファンを熱狂させた「乃木坂46の齋藤飛鳥」から、俳優でもタレントでもアーティストでもない、ひとりの表現者としての「齋藤飛鳥」へ。その変化の過程にいる彼女に、これから30代、40代と続いていく未来への思いを尋ねた。 ここでは『Quick Japan』vol.175掲載のロングインタビューの一部をお届けする。
あきらめたり受け入れたりすることは、全然悪いことじゃない
──中学1年で加入した乃木坂46は、当初から大きなプロジェクトでした。齋藤さんの姿がメディアを通して多くの人に見られたり、流布していっている認識を持ったのはいつごろでしたか? 齋藤 いつだろう。デビューシングルでは表題曲を歌う、いわゆる選抜メンバーに選んでいただいたんですけど、そのあとからは全然選ばれないことも多くて、すごく波のある乃木坂人生だったんですよね。だから、自分の名前や顔が知られてきたなっていう実感は、本当に全然なかったです。 ただ、乃木坂46というグループ全体についていえば、さんざんグループ名を間違えられたり、「誰?」みたいな目で見られていた当初から思えば、当時のお姉さんメンバーたちのがんばりもあって、すごく世の中に知られていった。だから、グループとして広がりみたいなものは、徐々に理解していったと思います。 ──多くの人に見られること、認知されることは目標でもある一方で、大きな環境の変化でもあると思います。そうした変化は、戸惑いなく素直に受け止められたのでしょうか。 齋藤 そうだなあ。最初はたぶん、普通に楽しかったと思います。見られるといっても、当時の生駒(里奈)ちゃんやまいやん(白石麻衣)みたいに、誰かの前に立たなきゃいけない位置にいたわけではなかったから、けっこう気楽にできたんです。曲を歌うにしても何かのステージに立つにしても、彼女たちのように大きな責任を背負うこともなかったし。まだ13、14歳だったから、あまり難しく考えることはなくて、ただ楽しく歌って踊っていただけだったと思います。 ただ、やっぱり高校生くらいになると、素の自分と「乃木坂46の齋藤飛鳥」とはもちろん全然違うなかで、自分をどこまでどう出せばいいのかわからなくなったり、出している自分の姿が受け入れられていないのかもしれないと思うときもあって。見られるのって、けっこうしんどいんだなって思い始めましたね。 ──それこそ「“素の齋藤飛鳥”はこういう人だ」みたいな解釈まで含めて、さまざまに語られていく。それは当然、ご本人の目や耳にも入ってきますよね。 齋藤 私の場合は、人とコミュニケーションを取るのが全然上手じゃないし、得意じゃない。だから、画面に映るメンバーとのやりとりや、ファンの人と接している様子が切り取られて、「本当の齋藤飛鳥」の姿として語られたりすると、どうしていいかわからなかったりもしました。それは素の自分じゃない上に、得意でもないことをがんばっている姿だから。若いときにはちょっと難しいことでしたから、一生懸命試行錯誤しながら、「じゃあこっちのキャラクターで行ってみよう」と、何度も変えてみたり、微調整したりしてたんじゃないかな。 でも、そうすることがめちゃくちゃ嫌だとか、そのせいで辞めたいとかいうことじゃなくて。この仕事ってそういうものなんだろうなと思っていたし、そう思うしかなかったから。向き合っていかなきゃいけないんだろうなって考えていましたね。 ──「そういうものなんだろうな」という受容は、誰もが当たり前にできることではないですよね。 齋藤 たしかにそうかもしれない。一定以上の年齢になってからは、一般的に「病む」という言葉で言われるようなことが、私はまったくなかったんです。でもそれは、そういう環境を糧にするとか、悔しくて負けたくないからがんばるとかともちょっと違くて、フラットに受け止めていたような気がしています。 ──なぜそれが可能だったんでしょう? 齋藤 もちろん自然にできたわけじゃなくて。よかったのは、その時期にたくさん本を読んだり映画を観たり、人の話を聞いたりして、いろいろな価値観を見るようにしたこと。まあ、当時はだいぶひねくれていたので、よく「何事にも期待しない」みたいな言い方で表していたんですけど、それが身についたのは本を読んでいたからだと思います。そうやっていろんな価値観を広げてくうちに、あきらめたり受け入れたりするのって全然悪いことじゃないんだなと思うようになったんです。 ──ネガティブな心情の結果としての「あきらめる」ではなく。 齋藤 うん、全然そういうわけじゃないです。あきらめるとか逃げるとかを、ネガティブに捉えたことはなかったので。自分の中では別にめちゃくちゃ無理してその考え方に至ったわけでもないし、フラットに考えているうちにそこに行き着きました。 ──たとえば、今ここでおっしゃられた「あきらめる」という言葉だけをどこかで切り取られて、「ほら、やっぱり無理してるんだ」と、また曲解される可能性さえあるわけですよね。 齋藤 うんうん。でも、その見られ方や言われ方ひとつにしても、「しょうがない」ってあきらめることも全然ネガティプじゃなくできるし、プラスして、自分が意図していない見られ方をしたときも、「あの発言がこう見えるんだ」と日々勉強していたというか、それをちょっとおもしろがっていた部分はありますね。 ──ご本人の意図とまったく違った解釈をされたり、誤った文脈で受け取られたりして、否定的なリアクションが来ることは、多くの人にとって「病む」ボイントになるような気がします。 齋藤 そうですね。たとえば、わかりやすいキャラクターとして「毒舌」みたいなことをやっていたときには、賛否でいったら当初はたぶん否のほうが多かったし、いろんなことを言われたりもしました。でも、いろいろ言われることによって、こちらもさじ加減を調整することができるから、ありがたいといえばありがたいし。 それに、何か言われたときでも、世の中全員が自分を否定しているような考え方になるのではなくて、たとえば自分の身近な大人の人たちはおもしろがってくれてるなとか、抜け道を探せていたと思うんですよ。