曹操の手の内から劉備のもとへ・・・関羽は、なぜ方向オンチにされたのか?【関羽千里をゆく】の謎
■なぜ、行く必要のない洛陽へ向かうのか? 書き手は、なぜこのルートをたどらせたのか・・・。 創作上の背景としては、官渡周辺は兵が多く監視が厳しかったとか、道が険しかった、関羽が方向を間違えた・・・などの理由が考えられる。だが、最初の東嶺関へ行く道じたいが東より険しく、その後のルートも曹操・袁紹両軍の激戦地と思われる場所を通過している。 物語上、その理由も示されていないため、単に「演義」の作者が北方の地理を知らず勘違いをしたという見解がなされがちだった。だが、あくまで憶測にすぎない。じつはもうひとつ、動かしがたい理由があった。それは「演義」のもとになった『三国志平話』を紐解くことで明らかになる。 『三国志平話』とは元の至治年間(1321~ 1323年)に成立した講談小説で、「演義」の原型のひとつだ。この「平話」に色々な肉付けや補足がされて『三国志演義』が成立した。このなかに「雲長千里独行」がある。その前後に見逃せない記述がある。 「関羽は皇叔のご家族を守って西のかた長安へとおもむき献帝に拝謁すれば・・・」「曹操は、あらかじめ覇陵橋(はりょうきょう)のたもとに兵士を潜ませ、関羽を待ち受けた」 「平話」では、曹操と献帝がいる都は許都ではなく長安(陝西省西安市)なのである。許への遷都は行われていない。このため、関羽は当時、長安の東方にあったという覇陵橋(西安市灞橋県)を通り、東の洛陽へ向かう。確かに、これならば、その後に河北へ向かうルートもそれほど無理がなくなる(地図点線部参照)。 ■もともと「五関斬六将」はなかったエピソード? ただし、この「平話」では「五関斬六将」は描かれない。六将どころか周倉も登場しないのである。関羽は何の困難もなく、数日でアッという間に冀州・鄴(ぎょう)に着き、袁紹に面会できてしまう。 ただ、すでに劉備は趙雲とともに河北を脱しており、関羽はそれをまた追いかけ南へ・・・という筋書きだ。周倉が出てこない代わりに、鞏固(きょうこ)というオリジナルの登場人物がいたり、珍しく張飛と趙雲が打ち合ったりなど「演義」の千里行とはかなり展開が異なるため、興味ある方は読み比べられたい。 「演義」が成立していくなかで「五関斬六将」が追加され、関羽の出発地も正史のとおり、許都に修正された。しかし、そのルートそのものは長安~河北ルートから変更されず残されたため、許都~洛陽~河北という無理が生じるものになったのだろう。 ただ長安にあった「覇陵橋」の名前は演義(普及版・毛宗崗版)では削除されたはずが、今では許昌市の観光名所になっている。「千里走単騎」がもとで三国名所が生まれたわけである。 関羽は『三国志演義』において神であり主役。この「千里走単騎」「五関斬六将」のエピソードは長く語り継がれ、聞き手の喝さいを浴びてきた。関羽の斬られ役たちも、その過程のなかで肉付けされ、性格付けされ、育成されてきたのだろう。もはや方角と距離の矛盾、関羽が方向オンチにされようが、そんなものはどうでもよくなっていたのだ。 「演義」において、いずれも3合と持たず倒れ去る六将たちだが、創作では意外な強敵として描いたものがある。その代表が映画『三国志英傑伝 関羽』(2011)。主演のドニー・イェンは小柄なので、あまり関羽らしくないが見事なアクションを披露する。孔秀(アンディ・オン)ら六将も強敵ぞろい。こうなっては三国志映画かどうかも怪しいが、ご興味あらばネット配信などでご覧いただきたい。
上永哲矢