曹操の手の内から劉備のもとへ・・・関羽は、なぜ方向オンチにされたのか?【関羽千里をゆく】の謎
「三国志」において、劉備配下の関羽が曹操に降り、一時的に客将となった時期があった。 それは中華三分する前の西暦200年、曹操と袁紹(えんしょう)が華北の支配をめぐって争った「官渡の戦い」のころ。その前哨戦で、関羽は袁紹軍の顔良(がんりょう)を討ち、曹操に義理を果たして劉備のもとへ帰る。 「関羽はことごとくその賜りものに封印をし、手紙を捧げて訣別を告げ、袁紹軍にいる先主(劉備)のもとへ奔った」(正史『三国志』関羽伝) 史書にはこのように記されており、側近が追跡しようとするのを曹操が「追ってはならぬ」と止めたのも史実のとおり「武帝紀」「関羽伝」で読める。関羽の義将たるゆえんだ。この記述をふくらませるかたちで『三国志演義』第27回に記されたのが美髯公(関羽)「千里走単騎」「五関斬六将」である。まずは以下、そのあらましをたどる。 ■正史からふくらませた「五関突破」と「六将斬り」 二夫人(甘夫人・糜夫人)を馬車に乗せた関羽は、下邳城時代からの従者たちをつれて許都(河南省許昌市)を出立する。行く手には「東嶺関(とうれいかん)」「洛陽関」「汜水関」「榮陽(けいよう)」「黄河の渡し場」という 5つの関門があり、計6名の守将が次々と待ち受ける。 守将らは関羽に対し「通行証を持っているか」と迫るが、無論「そんなものはない」。問答のすえ、無謀にも関羽に挑むが、いずれも2~3合と持たず斬り捨てられる。それらをすべて打ち倒した関羽は、周倉(しゅうそう)を配下に加え、古城で再会する張飛の誤解を解き、劉備のもとへ夫人たちを送り届ける。感動の再会を果たすのである。 許を出立後の 「五関斬六将」の部分は「演義」による創作で、孔秀・韓福・孟坦・卞喜(べんき)・王植・秦琪(しんき)たち将も一撃で関羽に倒される「引き立て役」としての存在だ。 関羽の手助けをする鎮国寺の住職・普浄や、胡華・胡班の親子も同様。この道中で関羽の側近となる周倉も創作上の人物である。 ただ、全員が創作かというと、そればかりでもない。二夫人を助けた廖化(りょうか)、「黄河の渡し場」の近くで登場する東郡太守の劉延(りゅうえん)、蔡陽(さいよう)などは一応実在の武将だ。部下の秦琪を斬られて激昂し、追いかけてくる夏侯惇(かこうとん)と関羽の一騎討ち。曹操の命令書を携えた張遼(ちょうりょう)がそれを諫めに来るシーンは千里行の山場である。 さて、本題に入ろう。この「千里行」を地図で見ると、関羽は非効率なルート をたどったのがわかる。まず疑問なのが許から北へ向かわず、西北に遠く離れた東嶺関を突破して洛陽関をめざすところだ。 「東嶺関は実在しない関所だった」というのはさておいて、物語上、東嶺関も洛陽も、とくに重要な人物が出てくるわけでもない。そもそも許都から洛陽を「突破」するなら、西の長安へ抜けるのが自然だが、関羽はそこで東の汜水関へと進路を変えてしまう。