特攻訓練も…勤労奉仕で作られた柞田飛行場 平和のため、絵本で伝える
日テレNEWS NNN
戦時中、住民の勤労奉仕で作られた飛行場が香川県観音寺市にありました。特攻訓練も行われた通称「柞田飛行場(くにたひこうじょう)」です。戦後79年、当時の市民の苦しみを子どもたちに伝える活動が行われています。西日本放送の取材です。 絵本のよみきかせ「軍隊のための飛行場ができるんじゃと。立ちのくように言われたんよ。おかあちゃん、うちはどこに行くん、行くとこあるん? 子どもは心配せんでもええ。お母さんは厳しい顔で答えました」 飛行場の建設に苦しめられた人々の実話を描いた物語「柞田飛行場」。3年前、地元の団体が絵本を作り、子どもたちに読み聞かせています。 終戦の5か月前、観音寺市に編成された海軍航空隊。住んでいた、およそ350戸を強制的に立ちのかせ、全長1.5キロの滑走路を勤労奉仕で作らせました。 高橋剛さん(87)「荷車を引いて、柞田川や財田川の小石と砂を運んで、飛行場を作った。半強制的やから、嫌とは言えない」 若者は戦地に赴き、残された女性や老人たちも作業にあたりました。 今も民家に残る滑走路。この場所で行われたのが…。 横山歳明さん(89)「2枚羽根の練習機が飛びよった」 訓練経験の浅い練習生たちが、粗末な練習機で作戦に組み込まれました。 航空隊を調査している細川健一さん「『乾坤一擲(けんこんいってき)』という言葉から一文字ずつ取って、『乾竜隊』『坤竜隊』ができるんです。物資が不足して実践用の航空機が作れない中で、苦肉の策として(練習機の)赤とんぼまで特攻機に駆り出して」 1945年5月、2つの特攻隊を編成。7月に九州の基地に向け出発するも、出撃することなく終戦。人々が命を削って作った滑走路が役に立つことは、ありませんでした。 絵本を作った団体の田中敬子さんは、戦地で父を失い、飛行場の建設に奔走した少女の言葉を代弁します。 「お父さんは戦争に行ったまま帰ってきません。おじいさんの死は、つらくて長い間、思い出したくありませんでした」 愛と心を語り継ぐ会・田中敬子さん「お話をきいてくれたみなさんは何歳?」 園児「5さい」 園児「おじいさんとお父さんが死んで、悲しいなって思った」「パパが死んだところが、こわかった」「お母さんが悲しんでいるのが、こわかった」 田中敬子さん「仲良しの人たちが亡くなる、それが戦争なんだよ。だから、したらいけないんだよ」 子どもたちが大人になったその後も平和が続くように、絵本で伝える活動が続きます。