「一度野球を諦めた」潜在能力社会人トップ153キロ齋藤に11球団調査書
社会人で開花した遅咲きの右腕
齊藤監督は、当時をこう述懐する。 「控えの2番手投手と聞いていたんですが、体つきが非常に良く、将来性があるなと。それで『ウチに来ないか?』と、その場で誘ったんです」 だが、齋藤は、申し出を断った。 「社会人でやりたいんで、大学野球は興味ないです」 だが、希望していた社会人は、結局どこからも声が掛からなかった。齋藤は、野球を諦めて、進路を一般就職に切り替えたという。 季節が秋に変わった頃、高校の監督と父親に説得される形で、一度は断った桐蔭横浜大への進学を決めた。 「周囲に大学で野球をやっている選手がいなかったので、当時は知識もなく馴染みがなかったというか…野球は辞めるつもりだったので、今思うと転機になりました」 しかし大学生活も順風満帆とはいえなかった。壊滅的な制球難に陥り、3年春まで公式戦の登板は1試合もなかった。 課題を克服すべく、監督に言われるがまま、来る日も来る日も近距離でのネットスローを繰り返した。「先が見えるのなら」。愚直に努力を続けた。 2年秋からは、並行して本格的なウエイトトレーニングを敢行。当時の体重80キロから8キロの増量に成功すると、土台が安定したせいか、下半身に粘りができ、制球力が向上した。 「スピードも速くなったし、球に勢いがついた」 併せて球速も、高校時代の最速139キロから、10キロUPの149キロまで伸びた。3年の冬にフォームを改造、同期の変化球投手から縦のスライダーとスプリットを教わった。 「フォームを力感なく、軽く投げても力のある真っ直ぐが投げられるように変えました。教えてもらった縦スラは打者の反応が良く、勝負球になりましたね。併せて変化球の腕の振りを、真っ直ぐと同じになるように修正しました」 それが転機となった。 4年春には、先発の2番手としてリーグ戦初完封を含む3試合連続完封。4勝1敗、防御率、1.01の好成績で、優勝に貢献。自身初のMVPを獲得した。 “無名の秘密兵器”は、ついに覚醒。一転、ドラフト候補となった。 しかし、ドラフト指名順位が5位以下ならHondaへ進むという条件をつけたことと、大学最後のリーグ戦での不調がネックになって指名漏れした。創価大の田中正義や桜美林大の佐々木千隼、神奈川大の濱口遥大らが人気になった2016年のドラフトである。 「ドラフトの重圧はなかったんですけど、自分らの世代は、いい投手が多かったので。けど悔しかった。Hondaで鍛えて、2年後は(ドラフトの)上位で行けるような投手になると思いました。(スカウトの)評価を覆そうと、見返すつもりで社会人へ進みました」