国語の教科書から文学作品が消え、日本人は何を得て何を失うのか
石出 靖雄(明治大学 商学部 教授) 学習指導要領が改訂され、小説などの文学作品が国語の教科書にあまり載らなくなりました。これまで授業の一環として出合ってきた多彩な言葉の表現に触れる機会が、大幅に減ることも考えられます。また、SNS上などで流行する言葉が、発信者の考えを的確に表現できているかは疑問です。繊細な言葉に対する感覚は、物事の捉え方と深く関わっているもの。言葉のインプットとアウトプットについて考えます。
◇「羅生門」や「こころ」、「山月記」などの作中表現は、もはや共通言語ではない 高等学校の国語教育は以前、現代文と古典の4単位からなる「国語総合」が1年次の必修科目でした。しかし2022年度の改定により、「現代の国語」と「言語文化」の2単位ずつに入れ替わっています。 「現代の国語」は主に評論文を扱っていて、これまで「国語総合」にあった小説などの文学作品は、「言語文化」で取り上げることになっています。ただ、一社が、「現代の国語」の教科書に文学作品を入れたところ、教科書検定を通ってしまい、文科省の不徹底だとして波紋を呼びました。しかし、教育現場にそれを望む空気があるのが現状だと思います。 では、「言語文化」で文学作品を大々的に扱うのかというと、そうでもありません。「言語文化」の主軸は、大学入試に関わってくる古典。すなわち近現代の文学作品の入る余地がなくなってしまったのです。 そもそも解釈の分かれる文学作品は採点がしにくいため、大学入試でも評論文を出題するケースが多い傾向にあります。高校2年次になると、小説も扱う「文学国語」という選択科目が出てきますが、多くの生徒が評論文を主に扱う「論理国語」のほうを選択するのが実情です。 これまでほとんどの教科書に載っていた芥川龍之介の「羅生門」や夏目漱石の「こころ」、森鷗外の「舞姫」や中島敦の「山月記」などに、授業で触れることがなくなっていきます。つまり大学生や社会人になってから、共通の話題となっていた文学作品も通じなくなります。そのことで何が起こるのかは、まだこれからの問題です。 ではなぜ文科省は、教科書から小説をなくしたいという意向を持ったのでしょう。考えられる理由のひとつに、国際学力調査「PISA」において、日本人の読解力が上位ではなく、国際的に遅れているという危機感をもったことが挙げられます。 世界的に見ると「国語」的な分野は、情報発信やディスカッションなどにおける言語運用能力に重きを置いています。いわゆるコミュニケーション力に近い位置づけになっていて、日本の「小説を読む」というのとは方向性が違います。とくにヨーロッパでは、実用的な学問だと認識されているようです。 「PISA」自体、ヨーロッパでつくられた問題が出されているため、このような結果になるのは無理もないと思いますが、日本でも、小説の主人公の心情を読みとくより、具体的な場面での言語運用能力のほうが重要だと考えられつつあるのでしょう。