国語の教科書から文学作品が消え、日本人は何を得て何を失うのか
◇言葉のニュアンスや意味の違いに敏感になると、世界との向き合い方も変わる いつの時代も若者はステレオタイプの表現や流行語をよく使います。若者やコミュニティだけでの言葉というのは、使うことで連帯感が生まれ、人間関係を結ぶうえで重要な要素になってくるという一面をもちます。 言語は変化していくものなので、そのこと自体は自然なことです。誤用が広辞苑に載り、正しい言い方だとされるようになることも少なくありません。ただ、ある一つの流行語が成立すると、それしか使わなくなってしまう傾向は問題です。 私たちが捉える世界は、言葉で決まっていくものです。つまり言語にすることで、自分の感性も決まっていくといえます。同じ表現を繰り返していくと、自分が考えていることが何なのかを突き止めていく力が失われていくかもしれません。「みんなが使うから自分も使う」という表現の場合、使っている本人もその言葉の意味をわかっていないことがあるでしょう。 本当に今、自分が何を考えているのか、何を表現したいのかを模索するのに、みんなが使っている言葉や流行語に当てはめていては、流されてしまうおそれがあります。ステレオタイプではなく、独自の表現をすることで、ものの見方も磨かれていくはずです。もちろん大衆に同意することが悪いわけではありませんが、自分の考えがないまま大勢の考え方に流されていくことは危険なのではないでしょうか。 情報過多の現代は、短い文章で伝えるSNSなどでも単純な言葉が多く使わる傾向があります。言い換えれば、多くの情報を発信するために、細かいことは気にしない傾向が昔よりはあるのではないでしょうか。観光地の秋の味覚を伝えるニュースでは「今が旬の○○に舌鼓を打ちました」といった、紋切り型の表現をよく耳にします。本当に多くの観光客が舌鼓を打ったのでしょうか。語彙が単純化し、少ない言葉しか使わなくなると、本当に思っていること発した言葉の意味とに、齟齬が生まれることもあるでしょう。 またオンライン上でのコミュニケーションが発達した現在、「書く」というより「打つ」ではあるものの、今ほど「言葉を書く」時代はないように思います。「話し言葉」と違い、「書き言葉」は言語の産出に時間をかけられ、推敲もできます。「なんとなく伝われ」で書くのではなく、ちゃんと伝わる形に表現を醸成させる習慣も大切です。 過度に気にするのも問題ですが、「この表現だと、こう受け取られかねない」といった視点は重要です。対面での話し言葉であれば、ほかにも情報があるため伝わりやすいのですが、書き言葉だとそうもいきません。たとえば手紙には「誤解されかねない」という前提があるため、非常に丁寧な言葉で書く伝統があります。敵意がないことが最大限伝わるよう、過剰なぐらい丁寧に書くのが手紙文化です。 SNS全盛の今の時代だからこそ、小説のように洗練された文学作品に多く接することは、有効だと思います。ちょっとした言葉のニュアンスや意味の違いに敏感になると、世界との向き合い方も変わるかもしれません。
石出 靖雄(明治大学 商学部 教授)