国語の教科書から文学作品が消え、日本人は何を得て何を失うのか
◇論理的・実用的な文章を学ぶのも大事だが、具体的な言語芸術を教材にすることも重要 国語はどういう科目であるべきかという議論は、古くからありました。かつての国語学者、今の日本語学者は、言語技術や言語行為の方法を教えるべきだという考えが主流でした。それに対して文学者たちは、文学作品を通じて文章を読み解く力を養うことを主眼にするべきだと主張する方が多かったように感じています。 私自身は日本語学的な表現を研究していますが、言葉を正確に考えて使っていくなかで、小説や詩などの文学作品は最も洗練されていると考えています。それらに接することで、日本語的な力や感性は磨かれるでしょう。 逆に、ツールとしての実用的な文章や論理的な文章だけ学んでいては、考える力や表現にこだわる力が育たないのではと危惧しています。たとえば「時間が流れる」「時間に追われる」といった表現は、実際に時間は流れるわけでも追ってくるわけでもありませんが、より実感できる言葉遣いであり、表現に豊かさがあります。国語教育において論理や実用中心の文章を扱うことも大事ですが、具体的な言語芸術を教材にすることも重要だと考えます。 私たちは言葉によって世界を捉えています。表現の違いによって受け手が抱く印象がかなり異なることは、多くの人が感じているでしょう。言語は思考とほぼイコールですから、乏しい言語を使っていると乏しい思考にしかなりません。伝えたいことを言葉に置き換え、しっくりこないと感じれば修正していくという作業をしていかなければ、自身の考え自体がはっきりしないということも起こり得ます。その結果、実際は自分の考えと異なっていたとしても、単純化され、どこか似ている他者の考えと同じ考えだと決めつけられる危険性もあります。 そういった事態を防ぐには、自分なりの表現を洗練させ、自分の感性に近い表現を心がけることも大事です。的確に表現できなければ、当然ながら誤って伝わりかねませんし、自身の考えに対する認知さえずれるおそれがある。誤解を招き続けてしまうことで、自分の発した言葉が虚構にすらなってしまいます。