大人気の“相撲”が明治期に滅亡の危機 存亡をかけた庶民VS政府の攻防戦
日本の国技、相撲は今なお人気で、世界にも自信を持って紹介できる伝統文化の一つです。江戸時代のモテ男の職業といえば「力士」が挙げられるほどの人気っぷりでした。ペリー来航時も「こんな日本人がいるんだぞ」と言わんばかりにその体の大きさをアピールし、力士ならではのパフォーマンスを披露しました。ところが、そんな相撲も一時期、「野蛮な文化」として滅亡の危機もあったそうです。明治期の古写真を見ながら、相撲の不遇の時代に愛好家たちによる存亡をかけた攻防戦がどのように行われたのかを大阪学院大学経済学部教授 森田健司さんが解説します。
モテ男「江戸の三男」とも呼ばれた力士
相撲は日本が誇る「伝統文化」の一つである。現代において、この物言いに批判が集まることは考えにくい。 古代、農耕儀礼として始まった相撲は、武士階級の勃興とともに勢力を伸ばし、江戸中期に至ると、勧進相撲として発達した。1791(寛政3)年には、江戸城でも相撲が行われ、当時の将軍である徳川家斉も楽しんでいる。 江戸時代においては、女性は勧進相撲を見ることができなかったが、稽古相撲に関してはその限りではなかった。だから、女性の相撲ファンも多かったのである。江戸において最も女性受けが良かった職業を「江戸の三男」といったが、それは「与力、相撲に火消しの頭」のことである。力士は、文句なしにモテる存在だった。 江戸時代の後期になると、有力な力士は各地の大名のお抱えとなり、士分で取り立てられ、俸禄が与えられた。そういった力士たちは、相撲を取る以外に、例えば大名行列を彩る役目なども与えられている。力士として名を成せば、興行に頼らずとも、安定した収入が得られ、さらに社会的地位まで得ることができたのである。 幕末にペリー提督率いる黒船が来航した際も、力士は重要な任務を与えられた。それは、アメリカ側に贈る「米俵を運ぶ」というものである。ただし、これは単なる力仕事ではない。 俵一俵は125ポンド(約56キログラム)を下らぬ重さがあったが、一度に二俵運ぶことのできない力士は二人しかいなかった。彼らは二つの俵を右肩に担いだが、はじめの一俵は地面から持ち上げて、手助けなしに肩にのせ、二つ目は手伝ってもらって肩に担ぎ上げた。 ― ペリー著、宮崎壽子監訳『ペリー提督日本遠征記(下)』(角川ソフィア文庫) ここに引いたペリーの感想から明らかなように、幕府が力士に米俵を運ばせたのは、一種のデモンストレーションだった。180センチメートルを超えるアメリカ人水兵が多かったのに対して、当時の日本人男性の平均身長は155センチメートルほど。著名な力士たちを集めて、日本にも大きくて強い男たちがいることを見せ付けたかったのだろう。 初めに掲げた写真は、明治初期に撮影された「力士の取組」の様子である。撮影者は、オーストリア人の写真技師スチルフリード。相撲をモチーフとした彩色写真は、当時から数多く販売されていた。このことから、明治に入ってからも、相撲界は安泰だったように思われるかも知れない。しかし、実情は真逆だった。国によって、相撲は絶滅させられそうになったのである。その理由は、果たして何だったのだろうか。