大人気の“相撲”が明治期に滅亡の危機 存亡をかけた庶民VS政府の攻防戦
明治期には相撲が非文明的な「蛮習」に転落 一時は滅亡の危機も
明治政府の要人の多くは、幕末に攘夷を唱えて刀を振るった「志士」である。通常、攘夷というのは「夷狄(いてき)を払う」、すなわち「外国人を排除する」ことを意味する。ところが、彼らは政権を奪取した途端、その正反対に転向した。何もかも西洋化するのが正解とばかりに、日本の文化や風俗の改変を開始するのである。 今から考えると驚くしかないが、この流れの中で、相撲も槍玉に挙げられた。その第一の理由は、まわし以外着けていない力士たちの「格好」だった。 明治政府は、相撲を「蛮風」(野蛮な風習)と指弾し、これに禁止令を出す動きすら見せる。それは、西洋人から見て、「半裸の力士がぶつかり合う競技は野蛮と思われるだろう」という憶測、最近流行した語で言えば「忖度(そんたく)」した結果だった。救いだったのは、政府要人の中に相撲への理解者がいたことで、その代表が西郷隆盛である。結果として、禁止令自体は見送られたが、「相撲は悪しき旧習の一つである」という政府の見方は、一般社会にも少しずつ広がっていった。 これに対して、相撲界もただ黙していたわけではない。1876(明治9)年には、東京相撲会所(かいしょ)が、「力士消防別手組」の設置を願い出ている。これは、力士が町内の警備を担当するというものであり、こうした社会貢献によって、相撲に対する世評を高めようとしたのである。この別手組は設置が認可され、実際に2年間活動している。 また、女性の相撲見物(本場所)も1872(明治5)年に認められており、このことも相撲に対する世評を高める上で有効に作用した。 結果として禁止令は回避できたものの、力士たちを取り巻く環境は、江戸時代に比べてはるかに過酷なままだった。何より、1869(明治2)年の版籍奉還と、1871(明治4)年の廃藩置県によって、多くの力士が経済的基盤を失ったことが大きい。もはや、かつてのような大名の庇護はなくなり、身分上の優遇もなくなったのである。 しかし、相撲はそう簡単には衰退しなかった。大名はいなくなったが、急激な近代化の中で財を成した多くの商人たちを、新たなスポンサーとして獲得するのである。長い歴史の中で培われた相撲という文化のタフネスが、ここにおいても発揮されたのだった。 時代も少しずつ、相撲に味方をし始める。特に、日清戦争と日露戦争の勝利によって一気に盛り上がったナショナリズムは、極端な西洋化への反省をうながし、伝統的文化の見直しの機運も高めた。一度は政府によって消滅させられかけた相撲という文化が、明治後期に至ってようやく、かつて同様の安定を取り戻すこととなったのである。 ところで、明治政府の要人たちによる「外国人の目には相撲は野蛮なものと映るのではないか」という心配は、正しいものだったのだろうか。おそらく、そういう偏見を持つ外国人もいたことだろう。しかし文献的に裏付けられる限りにおいて、明治初年に来日した外国人たちが最も嘲笑していたのは、「似合わない洋服を着た日本人」だったことは記憶しておきたい。 (大阪学院大学経済学部教授 森田健司)