「義手のレッスンプロ」小山田雅人の道のりを独占取材!
両手を駆使できたとしても、ハンディキャップゼロまでには、どれだけの努力を要するだろうか。
彼は片手ながら、健常者のトップアマとのマッチプレーを制し、クラブチャンピオンを7度も獲得。そのプレーは、斬新な手段を試みる独創性と、簡単な近道を見出す効率性に満ちている。「利き手がない」ということをマイナスにはとらえず、「義手を生かす」というプラスに変える。 「高校の合格祝いに、父にお願いしてゴルフへ連れて行ってもらい、初ラウンドが52の48で100でした。もうハーフを回ったら、44が出ました。 その後ゴルフはしませんでしたが、就職は自分と同じ障害者の手助けがしたいと、福祉事務所で働くために公務員試験を受けて合格し、初めての給料の時に、初ラウンドのことを思い出して新品のフルセットを買っちゃいました(笑)。 ところがすぐに悩みだして、もっと飛距離を出したい、と欲が出た途端、球が右にしか飛ばなくなったんです。そこからは練習場通いで、やっと見出したのが、手の甲が上を向くぐらいのフックグリップにして、極端なオープンスタンスで立ち、ドローを打つことでした。それでようやく真っすぐ飛んでくれて。 もちろん、義手の私に教えてくれる人はいませんし、義手のための教本もありません。実際に球を打ってみて、自分で気付くしかない。すべて自己流で、握り方、立ち方、振り方を編み出して、義手を生かしてドローで250ヤード飛ばします。 80台を出すまでに8年もかかりました。けれどそこからハンディキャップゼロまでは5年でした。その間、私は相手にハンディをいただいたことはなかったです。もらってしまうと、努力する気持ちが薄れてしまう気がしていたんです。クラブチャンピオンになってからは、逆に相手から『ハンディをください』って言われるようになりました。もちろん、『どうぞ』って(笑)」
ーーどれだけ過酷な運命に翻弄されなければならないのだろう。 片手でトップアマへと上り詰めながらも、脳腫瘍で生死の境をさまようことに。開頭手術を前にクラブをすべて捨て、ゴルフと決別する覚悟をする。 そして、生還した彼は、「プロになる」という新たな夢へと挑む。幼い娘の記憶に残すために。自己の生きている証しのために。ーー 小山田さんに聞いた、一問一答 ! Q.小さい頃の夢は ? A.サッカー選手 Q.自分の性格を分析すると A.細かい Q.宝物は ? A.子ども Q.プロになってよかったこと A.娘に「プロって格好いい」と言われたこと Q.やり残したこと A.シニアツアーに出てみたい Q.目指していきたいこと A.パラリンピックにゴルフを正式認定してもらうこと 取材・文/平山讓 写真/増田保雄 協力/那須陽光ゴルフクラブ ※2024年10月号 月刊ゴルフダイジェスト「ターニングポイント」から一部抜粋。
月刊ゴルフダイジェスト