「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(10)~キリスト紀年を表す造語『西暦』~ 西暦に代わる通年紀年法としての皇紀
平成に代わる新元号「令和」の時代が5月1日からスタートしました。元号は、日本だけでしか使われていない時代区分ではありますが、新聞やテレビなどで平成を振り返るさまざまな企画が行われるなど、一つの大きな区切りと捉える人が多かったようです。その一方で、元号に対して否定的で「西暦に統一したほうがいい」という意見も少なからず聞こえてきました。 そもそも、人はなぜ年を数えるのでしょう。元号という年の数え方に注目が集まっている今だからこそ、人がどのような方法で年を数えてきたのか、それにはどのような意味があるのかについて考えてみるのはいかがでしょうか。 長年、「歴史における時間」について考察し、研究を進めてきた佐藤正幸・山梨大学名誉教授(歴史理論)による「年を数える」ことをテーマとした連載「ホモ・ヒストリクスは年を数える」では、「年を数える」という人間特有の知的行為について、新しい見方を提示していきます。 第3シリーズ(7~11回)は「キリスト紀年を表す造語『西暦』」がテーマです。日本人はどのように「西暦」という言葉をつくりだしたのか。その背景に何があったのか。5日連続解説の4回目です。
西暦と対応するのは皇紀という紀年表記
一般に皇紀と呼ばれる神武天皇即位紀元は、1872(明治5)年11月15日太政官布告第342号として、「今般太陽暦御頒行 神武天皇即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告為メ来ル廿五日 御祭典被執行候事」として布告される。これは、太陽暦(つまりグレゴリオ暦)と同時に布告されたものである。 この背景には、もし、太陽暦だけの布告を行うと、一年一年を数える紀年も、自動的にキリスト紀年になると考えられたことがあったのではないか。本来なら明治5年12月3日が、明治6年1月1日となるのだから、明治6年という新しい紀年にはなるのだが、それだけでは不十分であると考えたようである。なぜなら、元号制度は積年紀年法であるが、キリスト教紀年法は通年紀年法である。通年紀年法としてのキリスト教紀年法に代わる、日本で使用が許される通年紀年法が必要と考えたようだ。 キリスト教紀年法に代わる新たな通年紀年法は、法制度上においても必要であった。なぜなら、太陽暦が公布された当時の日本は、依然として、切支丹御禁制の時代であったためである。キリスト教国家(Christendom)ではない日本は、太陽暦を導入はするが、この太陽暦と連動しているキリスト教紀年法を避けるために、新たな通年紀年法の制定を必要としていたのだ。 そこで浮かび上がったのが、1869年4月に明治の法学者で政治家でもある津田真道が『議案録』に掲載した「年号ヲ廃シ、一元ヲ可建ノ議」と題する議案である。(大久保利謙・桑原伸介・川崎勝(編)『津田真道全集(上)』(みすず書房、2001)、285ページ) 津田真道の議案は、通年紀年法が必要な理由を初めて説明したという点で、実に興味ある提案なので、その全文を以下に紹介し、併せて筆者による現代語訳を併載する。 「年号ヲ廃シ、一元ヲ可建ノ議 刑法官権判事 津田真一郎」 「年号ハ本歳月ヲ紀スル為ニ、設ケタル者ナレ共、其ノ弊ヤ一代数号アリ、煩雑ノ極ミ遂ニ年号バカリ聞テハ、容易ニ弁識シ難キニ至レリ。明清ニ至リ此弊ヲ矯テ、一代一号トセシ如ク、此度御一新ニ就イテ、御改正被仰出、一等簡易ニナリタレ共、猶未可ナリト思フ。其故ハ、目今世界万国ト御交際ノ秋、西洋諸国ハ皆彼教祖生年ヲ以テ、元ヲ紀シ、千八百幾年、土耳其回部諸国ハ千二百幾年、如徳亜人ハ更ニ天地開闢ヲ以テ元ヲ紀スルト謂テ、四千幾年トカ称スルナリ。何レモ史伝紀年至テ簡易明亮ニテ、如何程不智短才ノ童蒙ニテモ、五百年ハ六百年ヨリ前ナルコト、誰モ疑フモノナシ。皇国に於テモ此度 御一新ノ秋ヲ好機会トシ、橿原ノ 聖世 御即位ノ年ヲ以テ、元ヲ建、百万世是ヲ用ヒタマハバ、紀伝歳月簡易明亮ナラン事、論ヲ待タザル所ナリ。謹テ議ス。」 (現代語訳:年号は、もともと、年月日を生起順に並べて、記録するために作られたものではあるけれども、その短所は、天皇一代に、数種類の年号があるケースがあるので、大変わずらわしい場合がある。その結果、年号を聞いただけでは、いつのどの時代か、識別するのが難しくなってしまう。中国では、明清の時代になって、このわずらわしさを克服するために、皇帝一代で一つの年号とした。この度の御一新の結果、年号の改正が行われ、一世一元の制に変更され、便利になったけれども、これだけではまだ不十分だと思う。なぜかというと、今般、世界諸国との国交が、開始されることになったけれども、西洋諸国は、皆彼らの教祖誕生年を以て、起算年とする紀年法を採用していて、現在、千八百幾年という。トルコなどのイスラム諸国は、現在千二百幾年。ユダヤ人は更に、天地開闢の年を起算年とする紀年法を採用していて、現在四千幾年と称している。この3つの紀年法のいずれもが、歴史を書く時にも、年を数える際にも、簡易明瞭である。まだ勉強途中の子どもであっても、500年は600年より前であることを、はっきりと理解できる。我が国においても、この度の御一新の機会をチャンスと考え、橿原の聖世(つまり神武天皇)御即位の年を以て、その年を起算年とし、以後百万年にわたってこの紀年法を使用すれば、年月を記録したり計算したりすることが、簡易明瞭になることは、議論の余地がない。ここに謹んで、議論の主題として提起するものである。) 1869年正月に、津田真道は静岡から東京に戻り、刑法官権判事に任命され、議事取調の兼務を命ぜられた。諸藩から藩士を集めて議員とし、政治を議論するために、1869年2月公議所が設置される。津田のこの提案は、その公議所に提出された議案の一つである。 津田は、1862年から1865年までオランダに留学し、海外の事情を自分の目で見て、知見を広めてきた。その一つが、この紀年法の議論である。(大久保利謙(編)『津田真道 研究と伝記』(みすず書房、1997)所載「津田真道年譜」335~339ページ) 議論の論点は、現在の紀年法の用語を使えば、「元号という積年紀年法に代えて、通年紀年法が必要だ。西洋諸国・ユダヤ人・イスラム諸国は、それぞれ自文化の通年紀年法を使用している。起算年を決めてそこから通年で年を数える方法は極めて明快な方法である。日本では、神武天皇即位を紀元とする紀年法を採用したら如何であろうか」というものである。 津田は、「西洋諸国は、皆彼らの教祖誕生年を以て、起算年とする紀年法を採用していて、現在、千八百幾年という」と述べている。しかし、実は、西洋諸国でキリスト紀年が単独の基軸紀年として、歴史年表にあらわれるのは、私が調べた限りでは、ジェームズ・ベルの『世界史一瞥』(ロンドン、1842)が初めてである。 それ以前は、紀年は複数の紀年を並列表記するのが、常であった。つまり、津田は、当時最新の紀年表記として、キリスト教紀年法が単独使用され始めた時期に、オランダに留学しており、この基軸紀年としてのキリスト紀元を知る。そして、日本はキリスト教国家ではないので、日本に相応しい、通年紀年法による基軸紀年として、神武天皇即位紀元の使用を思いついたようである。 神武天皇即位紀元に関しては、既に江戸時代に、多くの研究と、それに基づいた紀年一覧表が出版されており、津田が神武天皇即位紀元に言及するのには、十分な知識の蓄積があった。特に、渋川春海の編纂した『日本長暦』(1677)は、神武天皇即位の年の7年前甲寅の年(B.C.667)から貞享二年(1685)までの約2350年間の毎月の朔日の干支を計算したものである。(国立天文台の貴重資料展示室が『日本長暦』をインターネット公開している) 青木昆陽は1763年、キリスト教紀年法の話を聞き「オランダには年号なし」と考えるだけだった。しかし、それから100年以上が経過すると、津田真道が「キリスト教紀年法に代わる通年紀年法が日本にも必要だ」という見方を示したように、日本人の意識は大きく変化していたのである。