「運動嫌いの子供」が増えるだけ…オリンピック選手を"体育教師"として学校に送り込む文科省の大失策
■向上心を学ばせるならば「スポット講演」で十分 なぜ元オリンピアンを安易に教員に登用することが危険なのか。 子供たちが卓越した人物に触れることの大切さを、私は否定しない。努力の果てに高みに達した人が成長期の子供にもたらす影響は、確かにある。子供たちは彼、彼女から諦めずに努力を続けることの大切さや、緊張や不安のやり過ごし方、あるいは困難を乗り越えるための心構えなどを感じ取り、それがきっかけとなってときに大化けする。向学心など、自分を高めるために必要な意欲が湧いてくることもあるだろう。 だが、それは講演やスポット指導で十分に伝わる。先生という立場で毎日顔を合わせなくたっていい。むしろ毎日顔を合わせることはマイナスに作用しかねない。どれほど功成り名遂げた人であっても、身近になればなるほど慣れてしまうからだ。新鮮さが薄れ、トップアスリートの存在が醸す卓越性が感じられなくなる。スポット指導と日々をともにしながらの指導は、意味合いがまったく異なる。 ■「名選手名監督にあらず」 そもそも運動指導には、座学とは異なる困難さがつきまとう。伝えないといけないのはコツやカンといった身体感覚だ。コツやカンは、身に付けるのもさることながら、教えるのはさらに難しい。この難しさは、子供に自転車の乗り方を教えたことがある人ならば経験的にわかるはずだ。 「名選手名監督にあらず」と言われている通り、高い競技能力を備えているからといって必ずしも高度な指導ができるとは限らない。「自らできること」と「適切に教えること」のあいだには千里の逕庭がある。コツやカンを教える術は、それなりに訓練を積んだあとに指導現場での経験を積み重ねるなかで、次第に身についていくものだからだ。
■「わかっていてもできない」が発生するのが現場 「発生論的運動学」という学問がある。身体運動を高めるためにはコツやカンを習得しなければならないが、それらの発生を現象学的に掘り下げる分野であり、シンプルに言えば、「わかる」と「できる」の違いを明らかにするのを目的としている。 身体運動を習得しようとする場面では、「わかっていてもできない」という事態が往々にして起こる。頭で理解していても、からだがそのようには動いてくれない。バットやラケットの持ち方がわかっていてもうまくボールを打ち返せない、手順がわかっていてもうまく跳び箱を跳ぶことができないなどという現象が、あらゆる運動習得場面で生じる。 これはうまくコツがつかめず、カンが働かないからだ。つまり教員には、児童生徒がコツやカンをつかめるように、頭での理解としての「わかる」と、からだでの実践としての「できる」をつなぐことが求められる。 ■アスリートは自らの動きを言語化するのが苦手 言葉で言うのは簡単だが、この実践がなかなか難しい。「わかる」と「できる」の関係は実に複雑だからである。 というのも、運動習得場面では「わからなくてもできる」といったことも起こる。頭で理解せずとも見様見真似でできてしまうことがあり、言葉による説明を経ずとも感覚的にその動きを習得できてしまうのだ。「できる」に至るには「わかる」ための言葉が必ずしも必要なわけではない。反復するうちにいつのまにかできてしまうことも、ままにある。 もうおわかりだろう。トップアスリートがまさにそうである。 トップアスリートは運動神経がいい。つまり、コツやカンを掴むのがうまい。指導者からの言葉による説明を理解できずとも、その足りない部分を身体感覚で補う能力を備えている。類まれなる身体感覚を駆使し、たとえわからずともできるようになった経験を有しているのが、トップアスリートだ。だから感覚的に掴むことには長けている。 しかしながら――いや、だからこそと言うべきか――元トップアスリートは自らの動きを他者にわかりやすく説明することが苦手だ。彼、彼女らは、自ら体現できる動きをうまく言語化できず、言葉に詰まるか、「スーッ」「グッ」「パッ」など、オノマトペだらけでの説明をする傾向にある。ここに、先にも述べた「自らできる」と「誰かに教える」の壁がある。