小学校で飛び交う「こいつとは無理」「キモい」の声…なぜ学校現場では“多様性”よりも「分断」と「格差」が助長されてしまうのか【石井光太×木村泰子】
子守歌をスマホで流す
石井 本の中でたくさんの先生たちの声を紹介させていただきましたけども、いまは「ホモ・サピエンスの生育環境じゃない」いう京都大学の明和政子先生の言葉が印象的でした。 子どもは、本来、ほかの子と触れ合ったり、家族とは別の大人と出会ったり挫折をして、新しい発見をして、いわゆるホモ・サピエンスとしての人間の強さ、例えば向上心だとか勇気だとか優しさ、あるいは、「自分はここで生きてていいんだ」とかそういう力を獲得していく。 それが最近だと、子守歌をスマホで流して寝かす。保育園、幼稚園の段階から、オンラインゲームで遊んで、家の中で「死ね」とか言いつつ、銃で撃ち続ける。また、親自身が子育ての仕方をわからず、育児を外部発注する。塾に通わせる、英会話を習わせる、プログラミングを習わせる、などですね。複雑な環境の中で子どもが生きづらさを抱えてしまうと、特に保育園の先生は、涙を流しながら語っていました。自分たちがやりたい保育を全然できないんだと。さらに、その保育のしわ寄せが小学校にきているという一面もあると思うんです。 泰子さんは、未就学の段階でうまくいかなくなった子どもたちを小学校でうまくいくようにするために“巻き直し”が必要だとお話しになっています。先生から見て子どものどういう部分に巻き直しが必要だと思われるんでしょうか。 木村 大空小学校は10以上の保育園、こども園、幼稚園から入学してくるんですね。実は入学してきた子どもの資料を見なくても、子どもの喋り方、友達との関わり方、行動を見れば、どの幼稚園から来たかがわかるんです。なんでやと思いますか。 石井 幼稚園それぞれで教育の仕方が違う、そういうことですかね。
多様性と逆行する教育現場
木村 その通りで悪い表現で言えば、子どもに色がつけられているんです。例えば、たまたま一緒の幼稚園から来た子どもが1年生でお隣同士に座った。すると、その女の子が隣の男の子にずっと注意をしているんです。手はお膝でしょ、お行儀が悪い、背中ピン! とか。私が「ねえねえ、この子のお背中、ピンになってない、おててがお膝に行ってなくってさ、なんか困ることがある?」と聞いたら、「別に」って言うんですね。「じゃあ、なんでそんなふうに言うの」って言うと、すごく怒った顔して、「校長先生、嫌い」って言うんですね。なんで嫌いか教えてよって言ったら、「幼稚園の先生はいつも私に“この子に教えてあげてね”って言ってて、私が教えてあげたら、先生は私に“ありがとう。あなたのおかげで私はとっても楽になったわ。ミニ先生ね”って言うの」と。つまり、子どもが「先生の言うことを聞ける子」「先生の言うことを聞けない子」に分断されてしまっているんですね。 ただ、そうした子どもも小学校に来たら1ヶ月もかからないうちに変わります。じゃあ、どうして子どもが変わるのか。この点をまさに石井さんがこの本の中に書かれてるんですよ。つまり、環境を豊かにしていくこと。大空小学校の子どもたちは空気って言うんですけど、自分が吸う空気が安心できれば、自分らしさを出して学び始める。人は違っていることが当たり前やでって子どもが感じ始めると、自分とお友達の違いを格差にするんじゃなくって、リスペクトしあっていくんですね。 石井 学校の先生たちが口を揃えていたのが、子どもたちが「違い」を認められないということでした。上辺だけのちょっととした違いがあったら「もうこいつとは無理」「キモい」となってしまって、小さな交友グループがさらに小さくなっていく。社会自体が多様性を認めようとか、多文化共生だとか言っているにもかかわらず、実は子どもたちがそう考えられない。それは小学校だけではなくて、中学、高校でもそういう声が目立ちます。多様性を認めていくという社会の風潮と逆行した状況が学校で生まれているのはなぜなのでしょうか。