沖縄戦語る2枚の家族写真 元「白梅学徒隊」・武村豊さん
逃げまとうなか、「こんな辛い目に遭うよりは死んだほうがよい」と自殺が頭をよぎり、実際に崖に立ったことがあったという。「誰もいないところで死んだほうがいいねと思った。そこへ雫が落ちてきた。自分には信仰心とかないのだけど、母の顔が見えた気がした。『生きるんだよ、生きるんだよ』と言われているように感じた」。思いとどまった武村さんは、しばらくして他の住民らとともに捕虜になった。
母と姉の死
武村さんは沖縄戦で母と姉を亡くした。 武村さんが学徒隊として活動しているころ、母カメさんと姉文(ふみ)さんは、現在の与那原町付近に身を寄せていた。しかし、戦闘に巻き込まれ文さんが大きな怪我を負ってしまう。終戦後、武村さんが聞いた話では、周囲の人が逃げる際に「一緒に逃げましょう」と声を掛けたが、カメさんはその場で文さんに付き添うことを選び、「先に行きなさい」と応答したという。その後、2人の消息は分からない。カメさんは53歳、文さんは22歳だった。 武村さんはカメさんらが最後にいたとされる地域を訪れ、石を拾ったことがある。現在に至るまで2人のお骨はなく、骨壷には代わりにその石が入れられている。
実は、一家には九州に疎開するチャンスがあった。武村さんが女学校3年の時。「近所はみんな疎開したが、私が『いま自分が出て行ったら誰が沖縄を守るね? 私は行かない。疎開はしない』と頑張った」。母も、末っ子の武村さんだけを置いてはおけないと判断し、県庁職員だった文さんと一緒に沖縄に留まることになった。 「疎開船でやられた人もいたが、だいたいの人は九州にお世話になって、戦後は無事に帰ってきた。あの方たち見ると。私の母や姉も、疎開しておけば今ごろ元気でいたのに」と感じるという。 75年前の家族写真をなぞり、言葉を選びながら語った。
「生きていてよかった。元気でいてよかった」
「これが息子。この写真を撮る直前に山に登ったみたいで。よく日焼けしているでしょう?」。 終始重い雰囲気に包まれていた取材の中、武村さんの声が上ずった瞬間があった。今年4月に家族が集まって撮影したという、冒頭2枚目の写真を見せてくれたときだ。 「ひ孫8人を含めて25人が集まったの。本当に良かった」 一度は自ら死を選択する瀬戸際までいった武村さん。「あのときに命を絶っていたらこの子達いないだろうなって。本当に生きていてよかった。元気でいてよかった」 普段は居間の目立つ場所に飾ってある大判の写真。手にした武村さんは、笑顔だった。 (撮影:山本宏樹/deltaphoto)