19センバツ星稜 第4部・「伝統」をまとう/1 憧れ、黄のユニホーム /石川
<第91回選抜高校野球> ◇校名漢字、初出場から 「あのユニホームに憧れて……」。高校から星稜に入学した選手たちに志望動機を聞くと、口々に同じ答えが返ってくる。独特のデザインは、いかにして伝統になったのだろうか。 歴史は甲子園に初出場した1972年夏までさかのぼる。地方大会までは校名をアルファベットで記していたというが、念願の大舞台に手が届いたことを機に勝負着を一新することにした。 「漢字で『星稜』はどうだろうか、と松田覚神・初代校長が提案して。僕は校長先生を尊敬していたし、『じゃあ、字を書いてください』と」。チームを率いた山下智茂さん(74)=現名誉監督=は振り返る。当時、監督に就任して6年目。「新しい伝統を作ろう」という気概に満ちあふれていた。松田校長に墨書してもらった字体は現在も存在感を放つ。帽子の「☆」も特徴的。これは、「一番星になりたい」という山下さんの願いも込めたデザインだ。 ◇甲子園名勝負で「全国区」に スクールカラーをモチーフにした黄色は、若干の変更の跡がうかがえる。当初はクリーム色の印象が強かったが、箕島(和歌山)と延長十八回の死闘を演じた79年夏の甲子園以降は「ナイターでも目立つように」(山下さん)と、黄色をより強くした。「洗濯するとだんだん(色あせて)白くなってくるんでね。黄色みが増せば洗っても大丈夫だから」。冗談交じりに、山下さんは語る。 差し色はそれ以前に変更が加えられていた。濃紺から青へ。78年にプロ野球ヤクルト・スワローズが球団史上初めてリーグ優勝を果たし、さらに日本シリーズも制したことがきっかけだった。「弱かったチームが日本一になったでしょ? それで、ユニホームに使っていた青を取り入れた」。選手たちを全国の頂点に立たせたいという執念もにじむ。 今でこそ大会でグラウンドに立てない選手も同じユニホームを着ているが、平成の時代が訪れるまでは黄色のユニホームはベンチ入り選手にのみ着用を許された。79年夏の甲子園でマネジャーを務めた谷村誠一郎さん(57)=県立ろう学校教頭=は「ユニホームを着ることがステータスであり、憧れだった」と語る。 甲子園が遠くなりかけた昭和の終盤が、星稜にとっての分岐点に。「平成になり、『勝つ野球』から『育てる野球』に変えた。育てるためには選手全員が同じ気持ちにならないといけない」。山下さんの発想の転換で、部員がそろって黄色をまとうようになった。 初出場から程なくして甲子園で名勝負を繰り広げてきたことが、ユニホームの認知度を高めた。「ユニホームには先輩たちの汗と涙が凝縮されている。プライドを持って着てほしい」と山下さんは言う。谷村さんは「泥んこにしてもいいから、がむしゃらにプレーしてほしい」と、自身の経験を踏まえエールを送る。グラウンドで黄色い歓喜の輪が広がる瞬間を見ることが共通の願いだ。 ◇ 第91回選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高校野球連盟主催)開幕まで、あと10日。頂点を狙う星稜の伝統を、ユニホームを通じて改めてひもとく。【岩壁峻】(題字は星稜OB・真弓将さん)