広岡達朗92歳が大笑いした“ある質問”…その内容とは?「えっ、広岡さんがそんなことを…」ヤクルト監督時代の本音「エースは松岡に決まっとる」
1978年、球団初のリーグ優勝と日本一に輝いたヤクルトスワローズ。その原動力となったのが、16勝をマークして沢村賞を受賞した松岡弘だった。だが、ヤクルト監督の広岡達朗は同年の開幕戦で松岡を先発させず、シーズン途中には26日間も登板機会を与えない“非情”ともいえる采配を振った。果たして、広岡は松岡をどう評価していたのか。92歳の広岡に「46年前の真実」を聞いた。(連載第35回・広岡達朗編の#3/#4へ) 【貴重写真】「巨人の名ショート」だった広岡達朗の現役時代、見たことある?「私はいい選手に恵まれた」鬼と呼ばれたヤクルト監督時代や“エースとの絆”も写真で見る(全18枚)
「松岡とは一緒に苦労した間柄」と広岡達朗は言った
92歳になった広岡達朗に「1978年のヤクルトスワローズ投手陣」について話を聞いていると、繰り返し語られるエピソードがある。 「“今日は調子が悪いな”と判断して、私が審判に交代を告げると、安田はライトに向かって走って帰る。そして、ジャンボはキャッチャーの後ろ、バックネットに向けて思い切りボールを投げつけてからベンチに戻る。今考えてみると、2人とも悔しいんだよね。“何でオレのことを信用できないんだ”という前向きの怒りなんだよね……」 広岡の言う安田とはもちろん安田猛のことであり、「ジャンボ」とは鈴木康二朗である。安田は2021年2月に73歳で、鈴木は2019年11月に70歳で没している。広岡は続ける。 「あの頃、私もまだ若かったから、その姿を見て腹が立って仕方がなかった。隣にいたコーチの森(昌彦/現・祇晶)に、“何であいつらはあんな態度を取るんだ。監督をバカにしとる! ”って文句を言ったことがある。それは今でも覚えているよ」 広岡に取材を続けている間、このエピソードは何度も聞いた。しかし、1978(昭和53)年、スワローズ初の日本一の立役者となった沢村賞投手の話題が語られることは少なかった。「沢村賞投手」とはもちろん松岡弘のことである。そこで、改めて「松岡さんの印象はいかがですか?」と尋ねてみる。広岡の言葉は短い。 「お互いに研究して苦労した仲だよ……」 続く言葉を待った。 「……あいつは本当に人がいい。2人で苦労して、“ああせい、こうせい”とか、“どうやって投げたらいいのか? ”と何度も話し合った。そんな仲だよ」 当時のスワローズ投手陣について語る際に、しばしば「左の安田、右の松岡」と称される。78年の開幕投手は安田が務めている。一体、広岡は両者のことをどう見ていたのか? 当時のエースは、誰だったのか? 素朴な質問をぶつける。広岡は憤然として言った。 「エースは松岡。松岡に決まっとる。安田はただ投げられるだけ。投げられるだけの人。エースは松岡。松岡とは一緒に苦労した仲なんだよ」 広岡は何度も「苦労した仲」というフレーズを使った。
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