【バレー】荒木田裕子さんを偲んで
私の記憶の中の一番最初のバレーボールの映像は、モントリオールオリンピックの女子バレーボールが金メダルを獲得した表彰式のもの。試合の内容は覚えていないのだが、3本あるポールの真ん中に日の丸がのぼっていくのを家族そろってお茶の間のテレビで、夢中になって見守った。 それからずっとバレーボールの中継があれば、だいたいいつも家族で見ていた。あの頃の昭和の家庭としてはごく普通の光景だったと思う。日本リーグの試合も録画ではあったがテレビで放映があった。身の回りにはいつもバレーボールがあった。 実は「東洋の魔女」というのが1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得した全日本女子バレーチームを指すこと、最初はヨーロッパでの蔑称だったこと、そしてその後12年後にこのモントリオールで再び金メダルを獲得したこと。それはもっと大人になって知ったことだった。それまではなんとなくこのモントリオールオリンピックのチームのことも「東洋の魔女」だと思っていたし、ずっと日本は金メダルをとりつづけていたようにもうっすらと思っていた。 バレーボールのライターになったばかりの頃、編集長の鞄持ちで山田重雄さんのお別れ会にうかがった。おそらくそのときに荒木田裕子さんも参加されていたはずだが、実際にお話したのはアテネ五輪の直前だっただろうか。荒木田さんは全日本女子バレーチームの団長で、オリンピックは基本的に新聞社やテレビ局にしか取材パスが降りないため、私はチケットを購入してアテネ五輪を観戦取材した。そのことを五輪直前の壮行会の帰り道で荒木田さんにお話したところ「あら、来てくれるのね! あちらで会いましょう」とはつらつと声をかけてくださった。 それ以前にバレーボールマガジン(当時は違う名前の媒体だった)のスタッフが荒木田さんとメールでやり取りしていて、彼女は語学力を活かして何かメディアの仕事ができないかと相談を受けていたのである。金メダリストでかつ語学に堪能なため、いろいろな交渉に長けていた。2020年東京オリンピック・パラリンピックの招致にも大いに貢献し、実現させた。 私は1998年に自分の法人を立ち上げてバレーボール雑誌を制作してからずっと常に日本バレーボール界のメディアとして携わってきたが、その歴史は迫害の歴史であった。それは今も変わらない。競合誌と、管轄団体と。同じフリーランスの記者も含め、近年では全国紙のバレー担当記者すら加わって、ずっと迫害と妨害・根拠のない誹謗中傷の積み重ねであった。2020年東京オリンピック・パラリンピックの前にも管轄団体によるダメージに苦しんでいたが、このとき救いの手を差し伸べてくれたのが荒木田さんだった。弊誌顧問もそれ以前から私や媒体を支援してくれていたが、その時のダメージは彼が動いてくれても解決せず、荒木田さんが動いてもらってようやく解決となった。 その御礼にと顧問、スタッフと4人でお食事をしたが、荒木田さんから繰り出されたいろいろなエピソードに目を丸くするばかりだった。山田監督とのエピソード、ビッグこと白井貴子さんとのエピソード、FIVBとの交渉やオリンピックのことなど。貴重な機会だった。 その後も何かとお電話をくださり「どう? ちゃんと取材できてる?」と確認していただいた。今年度もまた管轄団体によるいろいろなダメージが生じたため、相談させていただいた。何度も働きかけていただいたようだが、最終的に解決したのかどうかは今もわからない。しかし、いつもお電話をいただくと、アンダーカテゴリの育成についてや、バレーボールの発展について、メディアへの露出の仕方についてなど、情熱的にお話されて、本当に日本のバレーボールについて心配し、発展するように祈り、実際に動いていらっしゃるんだなと感じた。その声は常にハキハキとしていて力があり、まさか闘病されているとは思いもよらなかった。