“遺す”と安易に選択できず…費用面や安全面から消えゆく『戦争遺構』愚かさを未来に伝え続けるためには
■工事費100億円で一度は「解体方針」も…行政も“苦渋の決断”迫られる
世界で初めて原爆が投下された広島は、戦争の愚かさと、平和を訴え続けてきた。 1914年、広島市南区に建設された「旧陸軍被服支廠」は、軍服や軍靴などの製造・貯蔵を担った市内最大級の被爆建物だ。
2024年8月9日、広島県から内部の取材を特別に許可された。内部を案内したのは、平和を訴える子供向けの本を執筆する作家・中澤晶子(なかざわ・しょうこ 71)さんだ。
ここではかつて、多くの被爆者が運ばれ、そして命を落とした。この場所も、議論の舞台となった『戦争遺構』だ。
広島県は2019年、老朽化による耐震工事費用100億円という試算などを理由に、「1棟を保存し、2棟を解体」する方針を表明した。 しかし、被ばく者や住民から保存を求める声が相次いだ。国の重要文化財指定(2024年1月)も後押しとなり、補助金など財源の調整も整い、一転して保存が決まった。「戦争の記憶」は、一度は伝承も危ぶまれた。
中澤晶子さん: 「(解体するのは)ちょっと違うんじゃないかなと思いましたね。戦争遺構を巡るということは、見えないものを見る、いろんな五感を働かせながら色んなことを考える、良い場所だと思う」
■「未来に遺し続けるため」の選択肢
平和を約束した広島の街で、遺していくために“姿を変える”選択をしたのが、平和記念公園にある被爆建物「レストハウス」だ。
館内には、爆心地・旧中島地区の歴史と記憶を伝える展示が設けられている。
原爆に見舞われながらも生存者がいたという地下1階は、中がむき出しになった柱や剥がれた床が、当時のまま残されている。
その外観は、耐震補強を施した2020年のリニューアルを機に、未来に遺し続けるために手を加え、「原爆投下前」のたたずまいに一新された。 ただし、戦時中の姿から変え過ぎずに残すことが、「“遺構として”戦争の愚かさを強く訴え続ける」と中澤さんは話す。
中澤晶子さん: 「難しいところですよね。人は目の前に物がなくなったら、そこで何が起こったか忘れる。被爆者がいらっしゃらなくなっても、戦争遺構は残る。被爆者の代わりに語ってくれる存在だと思う。次に愚かなことをしないための、何か踏みとどまるきっかけになったらすごく良いなと」
終戦から79年。戦争遺構は、その姿のまま「伝承」を担い続けることはできるのだろうか。 2024年8月16日放送