“遺す”と安易に選択できず…費用面や安全面から消えゆく『戦争遺構』愚かさを未来に伝え続けるためには
戦禍の傷跡を残し、戦争の愚かさを伝え続けてきた『戦争遺構』が今、消えつつある。平和を約束した被爆地の広島でも、戦争遺構の取り壊しの議論が浮上した。安全面を優先した耐震化と、それに伴う多額の工事費用など“やむを得ない事情”が背景にあるという。戦後79年を経た、戦争遺構を巡る現状を取材した。 【動画で見る】“遺す”と安易に選択できず…費用面や安全面から消えゆく『戦争遺構』愚かさを未来に伝え続けるためには
■戦争の記憶を伝える『戦争遺構』が消えつつある
1945年8月7日、かつて“東洋一”の兵器工場と呼ばれた愛知県豊川市の「豊川海軍工廠(こうしょう)」は、アメリカ軍の空爆で、2500人以上が犠牲となる大規模な空襲被害を受けた。
ちょうど79年後となる2024年8月7日、子供たちが訪れ、施設内を見学した。
施設の中の壁には、GHQが戦後、持ち出したもののリストが書かれていた。「弾薬」「信管」の文字は残っているが、「火薬」は確認できない。終戦間近のころには、火薬庫でありながら火薬はなかったということだ。
刻まれたその“傷跡”で、戦争の記憶を伝える場所。防空壕や軍需工場跡地など『戦争遺構』と呼ばれるものだ。 参加した女の子: 「戦争を体感した人がだんだんいなくなっているけど、戦争の怖さを伝えてもらいたい」 父親: 「少しでも身近に感じるようなところは遺してわかるようにした方が、この先の子供たちが生きていく上には必要かなとは思います」 戦争遺跡保存全国ネットワークによると、不発弾などの「物」とあわせ『戦争遺跡』とくくられるその数は、全国で5万件ともいわれている。
愛知県美浜町にある海岸線には、滑走台が残っている。ここから、水上機のパイロット養成部隊「第2河和海軍航空隊」が飛び立っていた。
終戦間際の1944年に完成した3本の滑走台は、20メートルほど先まで伸びていて、当時のままの姿で戦争を伝える、「歴史の証人」だ。 美浜町文化財保護委員 山下泉さん(73): 「やっぱり歴史の証人ですから。残すことが大事だと思いますけどね。戦争遺構は、脚色一切なしに、もうそのものを語っていますから」