息子の嫁「ずっと義母の介護をしてきたのに!」…「所詮は他人」と罵られて意見を”封殺”される『マイノリティ』たち
2015年に厚生労働省が出した統計によれば、日本人が亡くなった場所は病院、自宅の次に、「介護施設」が多くなっている。治療に特化した病院でもなく、住み慣れた自宅でもない「介護施設」で亡くなるとはどういうことなのか。 【漫画】くも膜下出血で倒れた夫を介護しながら高齢義母と同居する50代女性のリアル 介護アドバイザーとして活躍し、介護施設で看・介護部長も務めた筆者が、終末期の入居者や家族の実例を交えながら介護施設の舞台裏を語る『生活支援の場のターミナルケア 介護施設で死ぬということ』(髙口光子著)より、介護施設の実態に迫っていこう。 『生活支援の場のターミナルケア 介護施設で死ぬということ』連載第37回 『『ターミナルケア』に携わる介護職員たちが抱く“不安”と“恐怖”…介護職員自身も“ケア”する『フロア会議』の実態』より続く
言いたいことがあるのに言えない
ターミナルステージにさしかかった親の介護のあり方を決めるとき、まったくもめることなく、すんなり決まった場合、たいていは誰かが言いたいことを言えずに黙っていることが多いものです。 たとえば、もっとも身近で姑の世話をしていた長男の妻が、「おばあちゃんは常々、自然に穏やかに死にたいと言っていたから、きっとここ(施設)で、これ以上のことは何もせずに最期を迎えたいはずだ」と思っていても、嫁の立場でそれを口に出せば、「所詮は他人だからそんな冷たいことが言えるのね」と反論されかねない。 あるいは自分の親を病院で看取ったことのある親族が、「この段階で病院に入れても、検査や治療で本人を苦しめるだけだ」と言ってあげたいけれど、「あなたはお金を出さないくせに口を出す」と言われてしまいそう。 だから言いたくても口をつぐんでしまう。そんなケースはたくさんあるでしょう。 「この人の人生の最終段階をこんなふうに支えたい」「こんな最期を迎えさせてあげたい」というように、それぞれが望む介護のあり方を発言することは、発言者本人の生き方を示すことに通じます。生き方は人それぞれに異なります。また親族・家族における立場や介護される人との関係性もさまざまですから、各人が言いたいことを率直に言い合えば、意見がまとまらないのは当然のことなのかもしれません。 中には、とうとう介護のあり方が決められないまま、家族の迷いの中で亡くなっていく方もいらっしゃいます。でも、言いたいことが言えず、誰にも聞いてもらえず、誰かひとりの意見に一方的に従う形で介護方針が決まってしまうよりも、「こんなにもめて恥ずかしい」と思いながらも、みんなが自分の意見を言い合って結論を出したほうが、反省はあっても後悔はありません。第23回にもある通り、反省は時間の経過とともにやがて思い出になります。けれど後悔は家族や親族のあいだに、重いしこりを残してしまうのです。